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プロ野球1980年代の名選手

簑田浩二 “変則”&“正真正銘”のトリプルスリー達成者/プロ野球1980年代の名選手

 

1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。

好走塁で名を上げたオールラウンダー


阪急・簑田浩二


 1980年のパ・リーグで、プロ野球で唯一の珍記録が生まれた。31本塁打、39盗塁に加え、31犠打の“変則トリプルスリー”。達成したのは阪急の簑田浩二だ。打順は“世界の盗塁王”福本豊に続く二番打者。まずは福本の進塁を最優先に、キッチリ犠打で送る。その福本がアウトであれば、自らが自慢の俊足で“リードオフマン”となった。

 その名を一躍、全国区としたのも、やはり足だった。2年目の77年、巨人との日本シリーズ第4戦(後楽園)で、1点ビハインドの9回表二死一塁で代走に出ると、「思い切って走ろうという気持ちになって」すかさず二盗。高井保弘の左前打で一気に本塁を陥れた。

 これで同点とした阪急は、その勢いで逆転。翌日の第5戦(後楽園)にも勝利して3年連続で日本一に。翌78年には故障の大熊忠義に代わって二番打者となり、自己最多の61盗塁。打率.307もマークしたが、17本塁打にとどまってトリプルスリーは逃す。一方の守備では左翼手として、中堅の福本、右翼で強肩のウイリアムスと、鉄壁の外野陣を形成した。

「ホームランを打つより鋭いバックホームで走者を刺すほうが気持ちいい」というほどの守備職人で、以降8年連続でダイヤモンド・グラブに。81年からは右翼に回り、二走を三進させない役割を担っている。特に強肩ということはなかったが、打者のデータや走者、アウトの数などで守備位置を変え、俊足を駆って素早く打球に追いついて、正確な返球で走者を刺した。

 攻守走の三拍子がそろった選手が目標だった。“変則トリプルスリー”の80年が初の全試合出場となったが、打率.267に終わり、またしてもトリプルスリーは逃す。翌81年は打率こそ復調したものの、本塁打が激減。2度目の全試合出場となった82年は22本塁打、27盗塁、打率.282で、いずれも大台には届かなかったが、バランスは悪くない。

 そして迎えた83年。弓岡敬二郎が成長し、主軸の加藤英司広島へ移籍したことで、打順が二番から三番に。より自由に打てるようになると、開幕から打撃好調。選球眼を鍛え、三振を減らして四球を増やしたことで打率が向上、本塁打もコンスタントに積み上げていく。

 四番打者の前で盗塁は思うように増やせなかったが、9月から走りまくって大台をクリア。最終的には打率.312、32本塁打、35盗塁。3度目の正直で30年ぶりとなる“正真正銘”のトリプルスリーを達成した。プロ野球4人目。盗塁は自己最多に届かなかったが、92打点も自己最多で、まさにキャリアハイとなるシーズンだった。

大ベテランでも日本一を呼ぶ好走塁


 阪急6年ぶり、そして最後の優勝となった84年も三番打者として機能して、盗塁こそ一気に減らしたが、26本塁打、88打点、打率.280とスキのない打撃で2年連続3度目のベストナインも受賞。だが、翌85年からは受難が続く。それでも頭部死球禍のあった85年は24本塁打を放ったが、86年は67試合の出場にとどまり、連続ダイヤモンド・グラブもストップ。87年は長期離脱こそなかったものの、全盛期の輝きは取り戻せず。オフに金銭トレードで巨人へ移籍した。

 新天地1年目の88年から巨人は本拠地が後楽園球場から東京ドームに。当時の巨人は外野守備が最大の弱点でもあり、衰えは隠せなかったものの、その頭脳的かつ堅実な外野守備は戦力の底上げに大きく貢献する。

 奇しくも若手時代に好走塁で全国区となった日本シリーズの対戦チームでのプレー。若手時代の好走塁は“大博打”という側面もあったが、大ベテランとなった89年、近鉄との日本シリーズではスピードの衰えを走塁技術でカバー。3連敗で迎えた第4戦(後楽園)、リードオフマンとして先発出場すると、いきなり二塁打を放って犠打で三進、中飛で本塁に突入して、巧みに捕手のタッチをかわして生還した。

 ここから巨人は4連勝。日本シリーズの大舞台で、ふたたび足で日本一を呼び込んだ。

写真=BBM
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