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プロ野球1980年代の名選手

香川伸行 漫画から飛び出してきたような“ドカベン”/プロ野球1980年代の名選手

 

1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。

ファンの話題を集めたキャラクター


南海・香川伸行


 映画でもテレビドラマでも、漫画を原作にしたものは少なくないが、漫画を忠実に再現するのは難しい一方で、かけ離れれば批判を浴びるなど、漫画が原作だからこその苦労もあるようだ。スポーツの世界でも、実在の選手がそのまま登場したり、モデルになったりする漫画もあれば、漫画の登場人物を由来とするニックネームで実在の選手が呼ばれたりすることもあるが、あくまでも“別人”であり、似て非なる存在というより、似ても似つかないといったケースさえある。

 あくまでも漫画は漫画であって、実写で実在する人間が演じることさえ困難であり、ましてや実在の人物が漫画の登場人物であるはずもないのだが、漫画の登場人物が現実世界に飛び出してきたかのように1980年代のプロ野球界を沸かせたのが南海の“ドカベン”香川伸行だ。

 浪商高では牛島和彦(のち中日ほか)とバッテリーを組んで甲子園出場3度、1979年の春は準優勝、夏には大会史上初の3試合連続本塁打。春夏と合わせて5本塁打も当時の新記録で、飛距離125メートルともいわれる一発もあった。ドラフト2位で80年に南海へ入団すると、7月8日の近鉄戦(日生)で初打席本塁打の鮮烈デビュー。

 これだけでも漫画のようなのに、それ以上に生き写しのようだったのが体型だ。ずんぐりむっくりとした体型というのは当時の一般的な捕手像だったが、それをはるかにしのぎ、身長170センチながら体重は公称で96キロ。公称体重は引退まで一貫して96キロだったが、キャリアの途中からは100キロは軽く超えていたように見えた。高校時代から、そんなキャラクターのすべてがファンの話題を集める。観客を呼べるスター選手が少なかった南海にあって、貴重な人気選手だった。

 プロ1年目は50試合の出場ながら37安打で、うち8本塁打。見た目どおりスピードはなかったが、やはりパワーは規格外だった。見た目とは裏腹にテクニックも兼ね備えていて、4年目の83年は開幕から打撃好調。4月26日には打撃成績のトップに立って、「春の珍事」と笑う。

 意識面では就任したばかりの穴吹義雄監督の情熱的な指導がモチベーションを高め、技術面ではキャンプで福田昌久コーチに「バットを振って体で覚えろ」と言われて木づち型バットでボールを芯でとらえる練習を繰り返したのが実を結んだ。

最後は体重との戦いに……


「もちろん体調もいいから気分も乗るし、技術的にどうこうっていうのはないけど、大事に打っているってことでしょ。わりと素直に打ち返していると思う」

 83年は四番打者を任されることもあったが、後半戦に入ると徐々に失速して、8月11日にはついに打率トップから陥落。終盤に左手首を痛めて欠場して規定打席にも到達しなかったが、最終的には15本塁打、61打点、打率.313でベストナインに選ばれた。だが、これがキャリアハイとなってしまう。

 リードには一定の評価があったものの、肩が強いとは言えず、正捕手の座を確固たるものにするには至らなかった。杉浦忠監督となった86年には打撃を生かすため三塁手に挑戦。実際に21試合で三塁手として出場、グラブのハンドリングもやわらかく、投手に声をかけるタイミングも絶妙だったが、夏場に正捕手の吉田博之が故障したこともあって、三塁手としての定着もならなかった。

 ただ、その86年には13本塁打を放ち、以降2年連続で2ケタ本塁打。パワーは健在だった。

 だが、その体重が負荷となる。キャンプの時期には毎年のようにダイエットが話題となっていたが、ついに効果は見られず、最後はドクターストップのような形でダイエー元年の89年限りで現役引退。体重との戦いは引退後も続く。2014年に52歳の若さで急死。

「もう1回(野球を)やるとしたら高校生。あの大観衆の中で野球をやってみたい」

 その1年前に、こう語っている。最後まで少年野球の発展に尽力していたという。

写真=BBM
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