1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。 吉田義男を二塁へ追いやって正遊撃手に
プロ野球界において、巨人に続く長い歴史を誇る阪神。1リーグ時代の“ダイナマイト打線”を皮切りに多くの好打者を擁してきたが、ライバルの巨人では生え抜きの
川上哲治、
長嶋茂雄、
王貞治らが次々と通算2000安打に到達したのとは対照的に、その大台を超えた生え抜きは少ない。阪神の歴史が始まって80年を超えた2017年に
鳥谷敬が到達したが、やっと2人目。それまでは30年以上も長く唯一の存在だったのが藤田平だ。
すでに1980年代には大ベテランとなっていたが、1学年下で、60年代から70年代にかけて阪神でチームメートだった
江夏豊が「高校野球をやっていた者にとって、藤田平は当時のあこがれ」と語るように、その打撃は同世代の高校球児から注目を集めていた。市和歌山商高(現在の市和歌山高)で64年から2年連続センバツ出場。65年には2回戦で大会41年ぶりとなるゲーム2本塁打を放ち、決勝戦では4連続完封で勝ち上がってきた岡山東商高の
平松政次(のち大洋)と激突、延長13回の末に1対2で準優勝に終わったものの、2安打を放っている。
65年秋の第1回ドラフトで2位指名を受け、66年に阪神へ入団。1年目から一軍に定着して、2年目の67年には正遊撃手に。歴代きっての名遊撃手で“今牛若丸”と呼ばれた
吉田義男を二塁に追いやってのレギュラーだった。打順も長く打線を引っ張ってきた吉田に代わってリードオフマンとなり、軽くバットを担いで左打席に立ち、力みのない巧打者らしい打撃フォームで、いきなりリーグ最多の154安打。本塁打こそ16本にとどまったが、二塁打30、三塁打10もリーグ最多だった。
70年代に入ると打順は二番や三番も増えるようになったものの、安打の量産体制はキープ。ヒットメーカーながら、なかなかシーズン打率3割には届いていなかったが、74年に打率.302で初めて大台をクリアしている。77年から2年連続で打率3割、78年には208打席連続無三振のプロ野球新記録も達成し、シーズン18三振のみという安定感だった。ただ、守備には衰えが見え始め、その78年の後半からは一塁に回る。その転向が故障につながることになった。
翌79年4月17日の
ヤクルト戦(神宮)で捕球の際に左足の太ももを痛め、離脱。シーズン出場100試合を超えなかったのは1年目の66年のみだったが、それを大きく下回る18試合の出場に終わる。
一時は引退も考えたという。だが、プロ15年目で迎えた80年には復活、103試合に出場して、さすがに規定打席には届かなかったが打率.304と好調。翌81年に向けて、その打撃は勢いづいた。
1厘差で初の首位打者
巨人の
篠塚利夫と激しく首位打者のタイトルを争った81年。多少の浮き沈みがあった篠塚の一方で、序盤から安定して高い打率を維持し続ける。
一般的に左打者には苦手とされる左腕を攻略したのも大きかった。右腕には長打も意識したが、左腕に対しては巧打に徹して、最終的には右腕には打率.355、10本塁打だったが、左腕には打率.371で1本塁打。70年代後半にはファンの間でチャンスに凡飛を打ち上げるイメージもあったが、この81年は得点圏打率.382とチャンスにも強かった。
シーズン終盤は結膜炎もあって篠塚の打率を見ながら出場を調節して、1厘差の打率.358で首位打者に輝いている。
翌82年が最後の規定打席到達。続く83年には、5月3日の巨人戦(後楽園)で9回裏にクローザーで左腕の
角三男から左前打を放ち、阪神では初めてとなる生え抜き選手による通算2000安打を達成した。
84年限りで現役引退。2000安打を阪神ひと筋で達成したのは幸運だったのかもしれない。一方で、ドラフトの前年、64年に阪神は優勝し、次が引退の翌年、猛虎フィーバーの85年だ。阪神の生え抜きでの2000安打も珍しいが、2000安打を残しながら優勝を経験できなかったのも珍しい。
写真=BBM