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プロ野球1980年代の名選手

水谷新太郎 広岡監督に見いだされたツバメの正遊撃手/プロ野球1980年代の名選手

 

1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。

最大の武器は俊足



「弱かったから出られると思い、スワローズに入る」

 プロ野球選手が夢だった少年時代から言っていたという。当時は国鉄だったが、のちにヤクルトとなったスワローズで、その夢を実現させたのが水谷新太郎だ。そのスワローズは弱いのも相変わらずで、初優勝、日本一を経て、ふたたび弱い状態に逆戻りしていった。そんなヤクルトで正遊撃手として内野の要を担い、1980年代前半は主にリードオフマンとして打線を引っ張った。

 ドラフト9位で72年にヤクルト入団。最大の武器は俊足だった。翌73年、中西太コーチに言われて左打ちに挑戦。

「いずれにせよ非力なら足を生かそうということだったんでしょう。左打ちは生まれて初めてだったので、とにかく振り込みました」

 74年の最終戦となった10月15日の大洋戦(川崎)で一軍デビュー。途中から遊撃の守備に就き、迎えた初打席では詰まりながらも遊撃の頭上を越える初安打を放った。

 その74年からヤクルトのコーチに就任したのが、現役時代は巨人の正遊撃手として一世を風靡した広岡達朗だ。広岡コーチは自ら遊撃守備の手本を示し、徹底的に鍛えた。

 頭の中で、打者のインパクトから自分の捕球ポイントまでの打球のラインをイメージして、打球を呼び込むような感覚で守った。打球は左目で見ながら右足を踏み込んで捕球するようにすると、実際には正面で捕球できて一塁への送球もスムーズに。このときも一塁までの送球ラインをイメージ。肩が強いわけではなかったから、しっかりステップして送球することを心がけ、併殺の際にも極力、ステップを入れて正確な送球を目指した。

 そして76年、シーズン途中に広岡コーチが代行監督となると正遊撃手の座を確保。リーグ最多の29犠打も記録している。初優勝、日本一の78年には広岡監督から絶大な信頼を受けるまでに成長。終盤には打撃でも存在感を発揮したが、その打撃は守備のように伸びず。81年からは一番打者としての出場も増え、盗塁は徐々に増やしたものの、安打を増やすまでには至らなかった。

 83年、若手時代に左打ちへの転向を指示した恩師の中西コーチが復帰。これが転機となる。テークバックでポイントまで距離を取って打つことに取り組み、右方向へ引っ張る強い当たりが増えるように。最終的には108安打を放ち、初めてシーズン100安打の大台を超えた。打撃は“怪童”と呼ばれた強打の中西、守備は名遊撃手だった広岡の直伝。翌84年、そんな攻守がハイライトを迎える。

遊撃手として守備率.991の新記録も


 84年のヤクルトは目まぐるしく指揮官が交代した。4月中旬の8連敗で武上四郎監督が休養すると、恩師の中西コーチが監督代行を務めて最下位から脱出。ふたたび5月に最下位となると不整脈を理由に休養となり、土橋正幸コーチが指揮を執ることになった。

 そんなシーズンにあって、5月中旬からは不動のリードオフマンとして打線を引っ張っていく。最終的には自己最多の125試合に出場して125安打を放ち、本塁打、打点、打率の3部門すべてでキャリアハイ。打撃の好調が守備にも良い影響をもたらしたのか、守備率.991は当時のプロ野球記録だった。なお、ヤクルトも終盤に大洋を抜いて、3年連続の最下位は免れている。

 85年も112試合に出場。翌86年は93試合ながら21盗塁を決めたが、右ヒザの半月板を痛めたことで、徐々に出場機会を減らしていく。右ヒザをかばうことで左ヒザを痛め、当時は現代ほど簡単に手術を受けることもできず。無理を重ねていくうちに、ふくらはぎも痛めてしまう。

 88年には一軍に復帰したが、最大の武器だった俊足を奪われ、遊撃手として池山隆寛も頭角を現してきていた。89年が最後の一軍出場となり、90年限りで現役引退。そのままコーチに就任して、90年代の野村克也監督による“ID野球”を支えていくことになる。

写真=BBM
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