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プロ野球1980年代の名選手

久保康生 近鉄、阪神で“細く長く”投げ続けた鉄腕/プロ野球1980年代の名選手

 

1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。

80年代に本領発揮


近鉄・久保康生


 太く短く、1シーズンの輝きで球史に名を残した投手は少なくない。対照的に、いずれのシーズンもエースと呼べるような記録を残していなくても、長いキャリアを第一線で過ごし、結果を残し続ける投手は多くない。そんな好投手の典型が久保康生だ。1970年代から90年代にかけて、自慢の直球を軸に変化球を織り交ぜていく本格派のピッチングで、先発に、リリーフにと投げまくった。

 76年に柳川商高のエースとして夏の甲子園に出場。秋のドラフト1位で指名されて近鉄へ入団した。本領発揮は80年代に入ってからだ。4年目の80年は前期にリリーフとしてプロ初勝利を挙げると、後期は先発の一角を確保して、初完投となった8月17日の日本ハム戦ダブルヘッダー第2試合(札幌円山)では打線の援護も乏しく敗戦投手となったが、9月3日の日本ハム戦(日生)で初の完投勝利でリベンジ。9月中旬からは先発で完投勝利、リリーフでセーブを記録するなど投げまくって後期優勝に貢献した。

 シーズン通算では8勝3セーブで、近鉄はロッテとのプレーオフを制して2年連続リーグ制覇。本格的に味わった優勝の美酒だったが、これは長い現役生活で最後の歓喜でもあった。翌81年も先発、リリーフでフル回転して、5月9日の阪急戦(西宮)でプロ初完封。打線が急失速、鈴木啓示井本隆の左右両輪が精彩を欠いて最下位に沈んだ近鉄にあって、42試合の登板で9勝8セーブを記録した。

 ハイライトが82年だ。開幕第2戦となった4月5日の阪急戦(西宮)で完投勝利を挙げると、以降7連続完投で6勝1敗、そのまま先発の軸となり、9月5日の南海戦(大阪)では無四球完封も記録。最終的にはシーズン通算では15完投、12勝1セーブで、これが最初で最後の2ケタ勝利となった。なお、この82年は戦後最年少で三冠王となったロッテの落合博満を打率.176、3安打、1本塁打に抑え込んでいるが、阪神時代の95年には中日を経て巨人でプレーしていた落合に通算2000安打の達成を許している。

 翌83年は5勝10敗と大きく負け越し。徐々にリリーフが増え、ヒジにも負担がかかっていく。86年オフ、ついに右ヒジ手術。これで運命が暗転する。思うように球速が伸びなくなり、打たれまくった。そして88年、2試合に登板しただけでシーズン途中に阪神へ移籍。日本一イヤーの85年から、まるで転がり落ちるかのように勢いを失い、バースが帰国、掛布雅之が戦列を離れて“ダメ虎”と言われた危機的状況の阪神にあって、開き直ったのが良かったのか、長く伸び悩んでいた直球が復活していく。



88年シーズン途中に阪神へ


 5月31日のヤクルト戦(甲子園)でのリリーフが移籍後の初登板。阪神8連敗で迎えた6月13日の巨人戦(甲子園)で先発に大抜擢されると、たびたびピンチを迎えながらも6回1失点に抑え、中西清起のリリーフもあって1年10カ月ぶりの勝利投手に。その後も7月17日の中日戦(甲子園)で完投勝利、31日の大洋戦(甲子園)では完封。ヒジに多少の痛みは残っていたが、村山実監督の期待に応えようと投げ続けた。

 先発では緩急をつけるためにカーブやチェンジアップ、フォークも投げたが、リリーフではアクセル全開、直球とスライダーで勝負した。90年にはリーグ最多の55試合に投げまくり、阪神ファンから「また出た、ええ加減にせえ!」とヤジられたほどだったが、投球回は84イニングながら先発時代をしのぐ自己最多の89奪三振を記録している。

 96年に古巣の近鉄へ復帰。投手としては異例の背番号6を着けて、リリーフエースの赤堀元之につなぐセットアッパーとして大ベテランらしい安定感を発揮した。97年限りで現役引退。現役生活21年、実働は20年で、一軍登板がなかったのはプロ1年目の77年のみだ。

 投手タイトルも目立った記録もないが、登板した試合は通算550試合を数える。まさに細く長く投げ続けた鉄腕だ。

写真=BBM
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