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プロ野球FA史

【FA史】タテジマが“ヨコシマ”になりかけた阪神/1996年

 

1993年オフからスタートしたFA制度。いまや同制度は定着し、権利を得た選手の動向は常に注目されている。週べONLINEでは、そのFAの歴史を年度別に振り返っていく。

清原は結局あこがれの巨人へ


巨人阪神の争奪戦となったが清原(右)は巨人へFA移籍(左は長嶋茂雄監督)


 1996年のシーズン中から球団と対立していたロッテ伊良部秀輝がメジャー移籍を強く希望し、日米にまたがる大騒動に発展したオフ。ロッテはパドレスに伊良部との独占交渉権を与えたが、伊良部はヤンキースへの移籍を主張し、最終的には翌97年5月に三角トレードの形でヤンキースへ入団した。

 国内の移籍もドラマチックだった。80年代後半から黄金時代の西武で主砲を担ってきた清原和博がFA宣言。巨人と阪神の争奪戦となり、その去就に注目が集まった。

 清原にとって巨人は、あこがれの存在でもあり、因縁の相手でもあった。85年オフのドラフトでは、巨人から1位指名を確約されながら、実際に指名されたのはPL学園高でチームメートだった桑田真澄。会見では大粒の涙を流した。入団した西武でプロ2年目の87年に日本シリーズで巨人と対戦、日本一を目前にした守備中にも涙を見せ、その心に負った傷の深さを垣間見せている。

 一方、大阪は岸和田に生まれた清原にとって、阪神は地元のチームであり、阪神も伝統的な巨人のライバル。自分を裏切った巨人を完膚なきまでに叩きのめすには、これ以上ない戦場だ。阪神の吉田義男監督も「(ユニフォームの伝統的な)タテジマを横にしてでも」と誘ってくれた。やや突飛な表現だったが、低迷が続く阪神で新たな歴史を築こうとする意気込みは伝わってくる。一度は裏切った“初恋の相手”との恋を成就させるのか、あるいは自分を裏切りながらも強大な戦力であり続ける盟主に牙をむき続けるのか……。

【1996年オフのFA移籍】
12月9日 清原和博(西武→巨人)

12月9日 田村藤夫(ロッテ→ダイエー)

 巨人の長嶋茂雄監督は「僕の胸に飛び込んできなさい」とダイレクトなラブコール。清原が選んだのは巨人だった。

 これによって居場所を失ったのが巨人の落合博満だった。清原と同じ一塁手であり、「長嶋監督の悩む姿は見たくない」と自由契約を希望して日本ハムへ。98年限りで引退した。

黄金時代の礎となった田村


ダイエーで城島健司(右)の手本となった田村藤夫


 実績を残した選手だけが得られるFA権を行使して、あこがれの巨人へ10年かけて入団した形になり、四番打者を任された清原だったが、翌97年に巨人がBクラスに転落すると、すさまじいバッシングにさらされることになる。巨人は近鉄からスラッガーの石井浩郎、ロッテから投手のヒルマンも獲得。その後も余裕の大型補強を続けた。

 強打者の移籍では、むしろ広島を自由契約となってヤクルトへ移籍した小早川毅彦のほうが、優勝に貢献したという意味では成功と言えるのではないか。開幕戦から3打席連続本塁打で巨人を破り、優勝への号砲として見せると、2位の横浜との天王山でも優勝を呼び込む本塁打。必ずしもFAが勝者の道とは限らず、一方で自由契約がプロ野球選手としての終焉を意味しない。そんな移籍の醍醐味を痛感させられるシーズンオフだった。

 また、田村のFA移籍にも独特のドラマがある。ダイエーで長く日本ハムの司令塔を担った田村に求められたのは選手としての戦力ではなく、日本ハムでチームメートだった若菜嘉晴バッテリーコーチが「同じ捕手でプロ3年目を迎える城島健司のお手本に」と獲得したものだった。翌97年、城島は急成長。これが99年のダイエー初優勝、日本一に、さらには黄金時代へとつながっていくことになる。

写真=BBM
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