今年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。 阪急スペンサーは名コーチ
今回は『1964年11月9日号』。定価は50円だ。
日本シリーズも終わり、いよいよ契約更改がスタート。滅多にないことだが、紹介する月号とリアルな日付が合致した。
もめていたのがセの優勝チーム、
阪神・バッキー。
62年途中、テストを受けての入団だったバッキーは、当初の月給が25万円程度、それが2年目に8勝して年俸1万5000ドルになった(このときバッキーは身重の夫人を交渉に同席させたという)。
3年目のこの年は29勝9敗、防御率1.89をマーク。バッキーは3万ドルを要求したが、球団の返答は1万8000ドル(当時固定相場で1ドル360円)。バッキーは「北海道と沖縄くらいの差」と怒りの表情を浮かべた。
結局、「会社は僕を10勝投手並みの扱いにしている」と言って、未更改のまま帰国。次なる交渉は翌年2月1日の再来日後となる。
62年、5位に終わった後、大洋は「全員が減俸」を打ちだした。実際には一律の減額をした後、プラスの査定を行い、3人だけだが、昇格した選手もいた(前年1000万の選手なら900万に減額した上で査定をするというシステム)。
ただ大洋はもともと中部謙吉社長の方針もあって他球団より給料が高く、周囲からは「プロ野球を企業としてやっていく以上、もっと厳しくすべき」の声もあった。
一方、契約更改を早々に済ませ、帰国せずに秋季キャンプに参加していたのが阪急の
スペンサーとウインディ。阪急は2位となったが、
西本幸雄監督は、「2位になったからと言って気持ちがだらけてはなにもならない。練習は選手にとって一番大事なことなんだ」と語り、周囲が「これがプロチームか」と驚くほどの練習量をこなしている。
スペンサーは、自身の練習はマイペースながら、ほかの選手へのアドバイスを積極的に送る。
石井晶には、「投手中心に打ち返すときは追い込まれたとき、そうでないときは内角をキッとシャープに振るべきだ」と言っていた。
MVP、ベストナインの発表が例年になく遅れていた。これは世間が東京オリンピックで大騒ぎとなっていたため、終了後の10月30日にするとなったからだ。
MVPは62年まではシーズン終盤に投票(記者投票)が行われ、最終戦で開票され、発表されていたが、62年、阪神・
村山実に決まった際、成績で上回っていた
小山正明が憤慨。
日本シリーズにも少なからず影響が出たとも言われ、翌63年から日本シリーズ後となった。
またこの際、「最高殊勲選手」から「最優秀選手」と名称を変え、特に不文律としてあった優勝チームから選ぶ、という制約を取っ払った(1リーグ時代は優勝チーム以外からも何度もあった)。
では、また月曜に。
<次回に続く>
写真=BBM