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プロ野球1980年代の名選手

高橋慶彦【後編】俊足巧打のスイッチヒッターからの脱却/プロ野球1980年代の名選手

 

1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。

85年に73盗塁で3度目の盗塁王


83年の広島高橋慶彦(右。左はロッテ落合博満


 広島が2年連続で日本一となった1980年、初の全試合出場でリーグ最多の169安打を放ち、やはり2年連続で盗塁王に輝いた高橋慶彦だったが、盗塁刺も多かった。

「俺はコソッと盗塁したくないんだ。一番いいのは初球で走ること。もちろん警戒されるけど、相手が警戒する中で走るのに価値がある。走るんじゃないかと警戒されたほうが、バッターもストレート系が多くなるし、ピッチャーの気が散るから楽だしね。あのときは盗塁でアウトになっても、次にヒットで出ればいいと思ってた」

 俊足巧打のスイッチヒッターというイメージが変わったのが83年だった。春のキャンプで臨時コーチとなった山内一弘に師事すると、見違えるように飛距離が伸びる。

「バッティングを初めて教わった。精神面も教えてもらって、すごく勉強になった」

 それまで左打席では上から叩くことしか考えていなかったものが、グリップの位置を下げてレベルスイングにしたことで、前年の6本塁打から一気に24本塁打まで数字を伸ばす。打率も3年ぶりに3割をクリア。打撃の進化は足にも好影響を与えたのか、巨人の“青い稲妻”松本匡史と盗塁王を争った。リーグ最多盗塁刺は4度目、タイトルも逃したものの、70盗塁を記録している。

「でも、(山内の指導が)合ったのは俺くらいやないの。ふつうは、ちょっとしんどいかもしれん。ヒジや手首の使い方もそうだし、前腕がパンパンになったからね。俺は全然、平気だった。野球、好きだったしね。あとね、山内さんって“かっぱえびせん”っていうんだよ(笑)。知ってるかな、(広島県で創設されて全国区となった)カルビーのCMで『やめられない、とまらない』って。山内さんの指導も、始まると長かった(笑)」

 以降4年連続で20本塁打を超え、2ケタ本塁打は7年連続。のちに山内が中日の監督となってからも、試合前に教えを請い、周囲を唖然とさせたこともあった。

 84年は4年ぶりのリーグ優勝、日本一に貢献。意外だが、97得点はキャリア唯一のリーグ最多得点だ。古葉竹識監督のラストイヤーとなった翌85年には24本塁打で自己最多に並んだだけでなく、自己最多の73盗塁で5年ぶり3度目の盗塁王に。それでいて盗塁刺は、わずか18。投手のクセを観察し、特に6月からは高い成功率を誇った。

「ふだんは(クセが)出なくても、クリーンアップが相手だと出やすかったりする。その積み重ね」

 2年ぶりVイヤーとなった86年まで2年連続で全試合に出場。その後は三番打者が多くなっていった。

諸刃の剣


 甘いマスクからは想像しづらいが、自分を絶対に曲げず、決して妥協しない性格。それが猛練習を支え、猛練習が一流選手を生んだが、一方で周囲の誤解を呼び、衝突もあった。89年も不動の正遊撃手で、通算2000安打にも近づきつつあったものの、オフには追い出されるようにロッテへ。1年だけの在籍で91年に阪神へ移籍する。だが、「時代の流れ。もう僕の時代じゃない」と92年限りで現役を引退した。通算1826安打、163本塁打、477盗塁。

「ロッテ、阪神とやって、自分が野球を楽しめなくなったからやめた、という感じだからね。俺はそういうふうにしかできないんだ。でも、こういう性格だから、それだけのヒットを打てたと思う。そうじゃなきゃ、とっくにクビになってるよ。諸刃の剣よね。突っ張った俺がいたけど、突っ張った俺じゃなきゃ、ここまで来られなかった。ただね、俺って、古葉さんがいて、キヌ(衣笠祥雄)さん、浩二さん(山本浩二)、山内さんもそうだけど、出会いで野球があったと思ってる。出会いがなかったら続かなかったよ。珍しいんじゃないかな、こんな選手」

 自らをも傷つけた諸刃の剣だったが、その刃の美しさがファンを魅了したのも確かだ。

写真=BBM
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