1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。 大記録まで長い道のり
2000安打を達成した巨人・柴田勲
赤い手袋をトレードマークに、巨人V9を駆け抜けた柴田勲。法政二高のエースとして甲子園を沸かせ、投手として入団も、勝ち星のないまま2年目には打者に転向、プロ野球におけるスイッチヒッターのパイオニアとなった。甘いマスクで女性ファンからの人気は
王貞治、
長嶋茂雄ら“ON”以上。“銀座の帝王”とも呼ばれ、真面目な印象の選手が多かったV9巨人で異彩を放った。
そしてプロ19年目、36歳で迎えた1980年。それまで盗塁王6度、77年からも2年連続で戴冠したが、最後の規定打席到達となった79年は一気に減らして10盗塁に終わる。空前絶後の黄金時代を引っ張ったスピードスターにも、衰えは忍び寄ってきていた。長嶋監督がチームの再建を懸けて臨んだ79年オフの伊東キャンプを経て、V9を知らない若手も急成長。巨人は新しい時代を迎えつつあった。
80年を迎えた時点で、通算1957安打。
「巨人じゃなかったらバッターに転向してないよ。したとしても5年目くらい。巨人に入ったからバッターに早く転向して、2000安打も打てたんじゃないかな」
通算2000安打は時間の問題と思われたが、その達成までの道のりは長いものとなる。開幕戦から8試合目まではV9時代の定位置と同じ「一番・中堅」で先発出場。だが、2試合連続で無安打に終わると控えに回り、代打として2打席連続安打で先発メンバーに返り咲くも、打順は下位に。6月に入るまで、この繰り返しが続いた。
その後は五番打者がメーンとなり、7月29日の大洋戦(後楽園)で通算1999安打としたものの、その後は足踏みが続く。17打席の沈黙を経て、8月7日の
ヤクルト戦(神宮)、第2打席で左前打を放ち、ようやく2000安打に到達した。
「いやぁ、長かったよ。19年間、プロでやってきてよかったな」
スイッチヒッターの通算2000安打はプロ野球では初めての快挙。2015年に
楽天で
松井稼頭央が達成するまでは唯一だった。
ただ、その後は若手にレギュラーを譲ることになる。外野手では“コンコルド打法”の淡口憲司や、赤い手袋を意識した水色の手袋で一世を風靡することになる
松本匡史らが台頭。リードオフマンを務めたのはシーズン最終戦のみとなる。ちなみに、その10月20日の
広島戦(後楽園)では第4打席で適時二塁打、シーズン最終打席となった第5打席ではソロ本塁打を放って面目を施している。
そのオフ、長嶋監督が退任し、王と
高田繁が現役引退。V9の盟友たちがチームを去る中、翌81年がラストイヤーとなった。
日本シリーズで底力を発揮
81年は本拠地の最終戦となった10月5日のヤクルト戦(後楽園)で「一番・中堅」として先発出場。それまでは代打、代走ばかりで、チームは4年ぶりのリーグ優勝も、ほとんど貢献できなかった。だが、迎えた日本シリーズ、
日本ハムとの“後楽園決戦”で、最後の輝きを放つことになる。
もともと日本シリーズには強かった。特にV9後の日本シリーズでは存在感を発揮して、76年の阪急との日本シリーズでは3連敗と王手をかけられた第4戦(西宮)の9回表に決勝2ラン。2勝3敗で迎えた第6戦(後楽園)では0対7から巨人が反撃に転じ、8回裏に起死回生の2ランを放って、10回裏のサヨナラ勝ちを呼び込んでいる。最終的に巨人は阪急に敗れて日本一を逃したが、もし勝っていればMVPは確実だっただろう。
81年の日本シリーズでは、巨人の戦力は日本一の味を知らない若手ばかり。当初はシーズン同様に代打としての起用だったが、第4戦からは先発出場。シーズンの先発は6試合だけだったレジェンドが底力を発揮する。巨人の主催試合だった第5戦では5回裏に適時打、日本ハム主催の第6戦では2回表に巨人の初安打を放って先制の口火を切り、V9以来となる日本一に貢献した。オフに引退。V9という空前絶後の黄金時代を駆け抜けたレジェンドらしい有終の美だった。
写真=BBM