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プロ野球1980年代の名選手

久保寺雄二 南海三塁手として本領発揮しつつあった、その矢先の悲報/プロ野球1980年代の名選手

 

1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。

偵察要員から大ブレークへ



 あまりにも急な悲報だった。1985年1月4日、南海の正三塁手を務めていた久保寺雄二が心不全のため急逝。その報に接した誰もが言葉を失った。まだ26歳。176センチ、72キロとプロ野球選手としては小柄で細身だったが、俊足だけでなくパンチ力も秘め、77年限りで現役を引退した広瀬叔功を彷彿とさせることから“広瀬2世”と大いに期待を受けて、その期待にも徐々に近づきつつあった。ここからが本領発揮。その矢先だった。

 静岡商高では74年の夏から甲子園に2大会連続出場。中学時代はライバルだった大石大二郎(のち近鉄)とチームメートとなり、打っては三、四番、守っては三遊間でコンビを組んだ。最後の夏は県大会の本命と言われながらも、すでに卒業した上級生の不祥事で出場辞退を余儀なくされる不運で、甲子園の夢が断たれる。大会中は仲間たちと北海道に傷心旅行。だが、その秋のドラフトで南海から2位で指名されて、プロ入りを果たす。なお、このドラフトでは1位で指名された武藤一邦(のちロッテ)は入団を拒否していることから、結果的に同期入団では最も期待を受けた新人だったことは間違いない。

 高卒新人ながらプロ1年目の77年から一軍出場を果たしたものの、そのデビューは、これ以上ない地味なものだった。6月3日の阪急戦(西宮)で先発出場。ただ、これは偵察要員で、阪急の先発が右腕の山田久志だったため、左打者の片平晋作が代打に送られた。以降3試合連続で偵察要員だったが、ダブルヘッダーが組まれた5日の同カード第2試合、5点ビハインドの9回表無死の場面で、兼任監督でもある野村克也の代打でプロ初打席。剛速球で鳴らした山口高志から左中間フェンス直撃の二塁打を放ち、そのまま初得点も記録する。

 8日のロッテ戦(大阪)では「九番・三塁」で先発出場も、第1打席で中飛に倒れると、ベンチに下げられた。その後は代走で2試合に出場。1年目は11試合の出場が記録されたが、うち7試合は偵察要員だった。翌78年も二塁の河埜敬幸、遊撃の定岡智秋が相次いで故障したため、やむを得ず、という感じで二軍から引き上げられたものだったが、ここで結果を残す。河埜らが復帰してからも一軍に残り、外野の穴も埋めて、最終的にはバッテリーと一塁を除く全ポジションを守って104試合に出場した。

 そして80年に大ブレーク。内外野を守りながら、阪急の福本豊に並ぶリーグ最多の29二塁打を記録、腰痛で失速してシーズン通算では打率.292に終わったものの、前期だけなら打率.316と打撃も安定感を増した。

メモリアルイヤーに……


 器用すぎて、器用貧乏を危惧されたほどだったが、正三塁手の藤原満が82年限りで引退すると、ヘッドコーチとなった藤原とマンツーマンで本格的に三塁守備の特訓に励む。藤原の背番号7を「僕にください」と直訴して「もう1年、数字を残したら」と保留されたが、翌83年には正三塁手の座を確保して初の2ケタ11本塁打。ライトルの不振で三番打者も担い、満塁の場面で打率.429を記録するなど、勝負強さも光った。

 背番号7で迎えた84年は本職の三塁に加えて、故障の定岡に代わって遊撃にも回る。主軸も打てるユーティリティー。そんな貴重な存在感は低迷を続ける南海に不可欠となっていた。

 親会社の南海電鉄が創業100周年となる85年。そんな記念すべき年を迎えて早々の訃報だった。実家のある静岡県へ帰省していたところ、就寝中に突然、苦しみ始め、搬送された病院で息を引き取ったと伝わる。南海ナインは悲しみに沈み、迎えたシーズンでも最下位に転落。その3年後、球団創立50周年の88年に球団は売却された。

 このホープの死がなければ、創業100周年の最下位はなかったかもしれないし、創立50周年の球団売却に事態が転ばなかったかもしれない。確かに、歴史にifはない。だからといって、これぐらいの空想もできないとすれば、あまりにも悲し過ぎる。

写真=BBM
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