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プロ野球1980年代の名選手

平野光泰 近鉄ファンの脳裏に刻まれる魂のフルスイングとバックホーム/プロ野球1980年代の名選手

 

1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。

「野球は技術やない!」


近鉄・平野光泰


 1980年まで2年連続でパ・リーグを制しながら、日本シリーズでは2年連続で広島に3勝4敗で敗れた近鉄。西本幸雄監督は“悲運の闘将”と呼ばれたが、その後も近鉄は88年に“10.19”、で優勝に届かず、翌89年の日本シリーズでは巨人に3連勝4連敗など、最後の最後で勝ちきれない“詰めの甘さ”は、近鉄にとっては最大の弱点であり、同時にファンをつかんで離さない独特の魅力だったように思える。そんな近鉄にあって、80年までの連覇で攻守にわたって大一番での勝負強さを発揮したのが平野光泰だった。

 明星高3年時にエースとして春夏連続で甲子園に出場。社会人のクラレ岡山で外野手へ転向したが、投手出身の強肩はプロでも発揮された。ドラフト6位で72年に近鉄へ。ブレークは6年目の77年と早いほうではなかったものの、一躍、名を上げたのは79年6月26日の南海戦(大阪)だった。勝利か引き分けで近鉄の前期優勝が決まる一戦。1対1で迎えた8回裏、二死二塁から、打球は弱い当たりだったが、二遊間を抜けて中堅へ。二走の定岡智秋は余裕の生還と思われた。

「これで終わりか、って。でも、平野さんが猛然とチャージしているのが見えた」

 マスクをかぶっていた梨田は振り返る。

「白いボールが、ひと筋の光のように、どんどん、どんどん大きくなって。これを落としたら、えらいことだ。ビックリしたというより、緊張した」

 パンチパーマに闘志むき出しの全力プレー。西本監督をして“ガッツマン”と言わしめた中堅手が、鬼の形相で火を吹くようなド真ん中ダイレクトのバックホームで、定岡は本塁で憤死して、しばらく呆然となった。観衆も同様だ。大阪球場を包んだ一瞬の静寂は、やがて大歓声に変わった。

 この試合に引き分けた近鉄は前期優勝。“レーザービーム”などの洒落た呼称ではない。“魂のバックホーム”。ひねりもなくシンプルだが、そんな表現がピッタリのバックホームを、梨田は「生涯、忘れることのできない、思い出のシーンのひとつ」と言い、79年で最も印象に残ったシーンに挙げた西本監督は「人間が必死になったとき、不可能を可能にできる、ということだ。もう一度やってみろ、と言っても、二度とできないだろう。それほど奇跡であり、神業だった」と絶賛した。

 それだけではない。阪急とのプレーオフではバットで貢献。リードオフマンとして出場した第2戦(大阪)では8回裏にダメ押しの2ラン。これで王手をかけた近鉄は第3戦(西宮)にも勝って、3連勝で球団史上初のリーグ優勝に輝いている。

 ちなみに、広島との日本シリーズでは第7戦(大阪)の9回裏、無死二、三塁の場面で、高校時代に府大会でランニング本塁打を浴びせた江夏豊から四球を選び、満塁に。敗れたものの、この四球こそが、この場面を“江夏の21球”と語り継がれるほどの名勝負に昇華させたと言えるだろう。

80年に連覇を決める3ランも


 目標としていたのは打率や本塁打ではなく、チームの勝利と全試合出場だった。翌80年はキャリア唯一の全試合出場で、7月17日の阪急戦(西宮)ではサイクル安打も達成。ただ、その打棒が最も輝いたのは、やはりリーグ優勝を決めたロッテとのプレーオフ第3戦(大阪)だった。2連勝で王手をかけていた近鉄だったが、3点ビハインドの4回裏、先頭のアーノルドがソロ本塁打で1点を返すと、これに呼応するかのように3ラン。その後は猛牛打線が爆発して結果的には圧勝となったが、この3ランが決勝弾となり、近鉄は球団史上唯一のリーグ連覇を達成している。

 85年限りで現役引退。社会人を経てのプロ入りということもあり、決して長い現役生活とは言えなかったが、その打撃は現役時代、巨人で“打撃の神様”と呼ばれた川上哲治をして「真ん中高めの球を大根振り(タテ振り)でスイングしたときなどは、ほれぼれするほどだ」と言わしめている。“魂のフルスイング”もまた、ファンの脳裏に深く刻み込まれた。

写真=BBM
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