1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。 V9戦士が、またひとり……
巨人で
長嶋茂雄監督が事実上の解任となり、
王貞治が現役を引退した1980年オフ。もうひとり、V9の栄光を知る名手がユニフォームを脱いだ。攻守走の三拍子が揃い、“塀際の魔術師”と呼ばれた外野守備でダイヤモンド・グラブ、長嶋が現役を引退し、助っ人のジョンソンが苦しんだ三塁に回ってもダイヤモンド・グラブ。V9後の巨人も主力として支え続けた高田繁だ。プロ13年目、35歳となっていたが、確かに全盛期ほどではないにせよ、まだまだ余力が感じられる数字を残しながらの現役引退だった。
ただ、プロ1年目から結果を残した名手にしてみれば、満足できない数字だったのかもしれない。浪商高では1年夏に背番号14を着けて2年生エースの“怪童”
尾崎行雄(のち東映)とともに甲子園に出場し、2回戦から左翼手として攻守で優勝に貢献。3年時に南海へ入団する話もあったが、学校関係者の勧めで明大へ進学した。
1年秋から4年秋まで7季連続でベストナインに選ばれ、大学通算127安打は後輩で現在は阪神でプレーしている
高山俊が更新するまで長く東京六大学記録。4年時には主将を務め、「若いころは口より先に手が出た」島岡吉郎監督に唯一、殴られなかった主将とも言われた。
ドラフト1位で68年に巨人へ。スイッチヒッターながら右打ちに専念しようとして不振に陥った
柴田勲に代わって開幕第2戦から「一番・中堅」で起用されると、快打を連発。この年、アニメ化された人気マンガから「巨人の星、登場!」と騒がれた。巨人戦に燃えた阪神の
江夏豊にも強く、守備は左翼へ回ったが、一番打者の座は譲らず、わずかに規定打席には届かなかったものの、打率.301で新人王に。阪急との日本シリーズでもリードオフマンとして打率.385、8得点で新人ながらMVPに選ばれている。
翌69年から6年連続を含む8度の2ケタ本塁打。71年には38盗塁で盗塁王にも輝いた。“高田ファウル”と呼ばれる左翼線ギリギリのファウルが多かった一方で、左翼守備ではクッションボールの返りを的確に予測して、二塁打になるような左翼線への当たりを単打にとどめるファインプレーを連発。後楽園球場の左翼線への単打は“高田ヒット”と呼ばれた。
76年に三塁手への転向を指示され、長嶋監督、
黒江透修コーチが付きっきりの猛特訓。この年から後楽園球場に敷設され、イレギュラーのない人工芝も味方となり、77年まで内外野をまたいで6年連続でダイヤモンド・グラブに。内野でも外野でも、ともに“守備の名手”と評された稀有な選手だった。
後輩たちに託したバトン
76年は打撃も好調。センター方向に意識を置いたことで打率3割もクリアして、長嶋監督の初優勝に貢献した。リーグ連覇の77年には自己最多の32犠打もマークするなど、つなぎ役としても機能している。
だが、
中畑清の台頭で79年からは出場機会が減少。守備は外野が増え、翌80年は控えに回ることが多くなる。それでも、81試合の出場ながらリーグ最多の22犠打で戦力となったが、9月には引退を決めた。この時点では、まだ“ON”が巨人を去ることは決まっていない。引退セレモニーは王と一緒だったが、その後は別々の道を歩むことになる。コーチ就任を打診されたものの、固辞して解説者に。
「昔から、やめたら一度、外に出て野球を何年か勉強してみたい」
85年に
日本ハムの監督に就任。監督としては優勝を経験できなかったが、巨人のコーチ、二軍監督を経て、2005年に日本ハムのGMに就任する。まだ日本では定着しているとは言えなかったGMとして手腕を発揮して翌06年からの連覇に導き、12年からは新生
DeNAのGMとなって、中畑を監督に招聘。チーム再生の礎を築いた。
時計の針を80年代に戻す。その背番号8は81年に入団した
原辰徳が継承。同じ背番号8の三塁手として、80年代の巨人を引っ張っていくことになる。
写真=BBM