今年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。 東大出身第1号、大洋・新治はまだテスト中
今回は『1965年3月15日号』。定価は50円だ。
1965年2月27日、
巨人のオープン戦第1戦となる西鉄戦が平和台で開催された。
試合前、巨人の三塁側ベンチ前では、
金田正一がキャンプ名物にもなった
藤田元司コーチとの“掛け合い”付きノックで観客を沸かせていたが、その際、左手の人差し指に打球を当て、ツメがはがれてしまった。
「ワシがいけんかった。きょうグラブを人にやってしまい、新しいグローブを使ったんだが、なんだかなじめなかったんや。16年間一度もケガしなかったワシが……」
と金田。直後は「骨をやってしもうた」とも言っていたが、最初の医師の診断は「骨には異状なし」。しかし納得いかなかった金田は帰京後、再度、診断を受けると人差し指の亀裂骨折と分かった。
ただ、さほど重症ではなく、ピッチング再開まで3週間との診断だった。
その巨人では
川上哲治監督が妙に明るく、やる気をなくしたのではないか、と噂になっていた。
周囲がそう推測したのは、正力亨球団代表取締役の張り切りぶりだ。
キャンプ初日から宮崎入りし陣頭指揮。ドジャーズからのマイヤー、ラソーダコーチの招へいや金田をはじめとする補強も中心となって進めた。
「チームはオーナーのものだ。私は巨人がどのようなキャンプをするか見守る責任がある。監督は与えられた選手で、監督の技量を発揮してくれたらそれでいい」
さらには同じ慶大出身の藤田コーチを盛んに持ち上げ、
「今年もV逸なら藤田さんにコーチが代わるかも」と記者たちが話していたようだ。
2月21日、大洋の二次キャンプに参加した東大出身の新人・
新治伸治。すでに背番号28を着け、入団したのかと思っていたが、実はテスト中らしい。その理由も変わっている。
東大経済学部4年の新治は、大洋漁業経理部勤務が内定していたが、中部謙吉社長の「業務命令」で大洋球団に「出向」、いや出向するためのテストを受けていたという。
三原脩監督は言う。
「親会社に入社した人間ですから二軍に入れて鍛え直し、それから一軍昇格と時間をかけるわけにはいかない。これから1カ月をテスト期間として、一軍で使えないとなれば、すぐ本社に復帰させます」
対して新治は、
「このテストがダメになっても野球は続けたい。2、3年(捕鯨で)南氷洋に行ったつもりでやれば大したことはありません。合宿に行ってやりますよ。上の人は二軍へ落とすことが僕を傷つけると思っているのでしょうが、大丈夫です」
と話していた。
では、またあした。
<次回に続く>