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平成助っ人賛歌

チョ・ソンミン 悲運のコリアン・エクスプレス/平成助っ人賛歌【プロ野球死亡遊戯】

 

運命の一戦を見て巨人へ


鳴り物入りで巨人へ入団したチョ・ソンミン。さわやかなマスクでも人気を博した


 平成に入り、急に世界が近くなった気がしたものだ。

 1989年にベルリンの壁が崩壊し、マルタ会談の米ソ首脳会談で東西冷戦終結(91年12月にソ連は解体)、お茶の間は8ビットのファミコンから16ビットのスーパーファミコンへ。テレビでそんなニュースが流れるたびに、世界が変わる、新時代が始まると人々は思ったものだが、90年代の日本スポーツ界の流れも“国際化”だった。93年春には大相撲の曙が外国出身初の横綱に昇進、女子テニスの伊達公子が全豪オープンで初のベスト4進出、Jリーグが始まったサッカー界ではW杯予選の“ドーハの悲劇”の一戦がテレビ視聴率48.1パーセントを記録した。野球界でも、まだ10代のマック鈴木が海を渡り、95年にはドジャースへ移籍した野茂英雄がNOMOフィーバーを巻き起こす。そしてプロ野球では、90年に広島カープがドミニカ共和国にカープアカデミーを開校。のちにロビンソン・チェコらを日本球界へ送り込んだ。

 90年代後半には韓国球界からの移籍も活発化する。日本でも最多セーブのタイトルに輝いた剛腕ソン・ドンヨル、“韓国のイチロー”ことイ・ジョンボム、長髪がトレードマークの左腕サムソン・リーといったスターたちが続々と中日ドラゴンズへ入団。ちなみに90年代に3度開催された「日韓プロ野球スーパーゲーム」というNPBとKBOの選抜チームが戦う興行を主催していたのが中日新聞だった。となると、ソン争奪戦で敗れたライバル球団の巨人も黙っていない。95年オフに8年契約という異例の長期契約で獲得したのが、高麗大のチョ・ソンミンである。MAX151キロの直球に多彩な変化球を操る“コリアン・エクスプレス”と称される身長194cmの大型右腕が、なぜ大学卒業即日本行きを選択したのか?

 PL学園時代の福留孝介がドラフトの目玉として表紙を飾る『週刊ベースボール』95年11月27日号に、チョ・ソンミンの独占インタビューが掲載されている。早くも背番号のついてないユニフォームで宮崎秋季キャンプに参加し、長嶋茂雄監督からはいつも「減量しなさい」なんて言われると笑う22歳の青年は、前年のアジア大会で来日した際に広島のホテルのテレビで見たプロ野球の試合に強く興味を持った。その運命の一戦とは、あの中日vs.巨人の勝った方が優勝の“10.8決戦”である。

 強い海外志向とナゴヤ球場の熱気にも背中を押され、韓国のドラフト会議で指名される前に契約金1億5000万円、年俸1200万円と日本のドラ1クラスの好条件で巨人入り。チョはこのインタビューでアマ時代にホームランを打たれた慶大の高木大成西武ドラフト1位)について聞かれると、「打たれたのはスッポ抜けの力がないボールでしたから、自分が実力で負けたとは思っていません。もちろん、彼も実力のあるいい選手ですが」と強気なコメントを残している。

3年目に念願の先発転向も……


98年に7勝をマークしたが、右ヒジ故障後は結果を残せず


 来日1年目は右ヒジ手術の桑田真澄の代役を期待されるも、肩の故障に泣かされ「これで自分の野球人生は終わってしまうのか」と悩む苦しいシーズンを送ったが、2年目の97年は22試合で1勝2敗11セーブ、防御率2.89の活躍で頭角を現す。8月にはオロナミンCで知られる大塚製薬の「ハツラツ リリーフ賞」も受賞。『週刊ベースボール』97年9月1日号の「海を越えたコリアン・パワー」特集において、ドジャースでこの年14勝を挙げた同じ73年生まれのパク・チャンホとともに表紙を飾る出世ぶりだ。

 チョ・ソンミンは独占インタビューでパクについて「彼は大学2年で中退してアメリカへ行ってしまったので、国内で競い合ったことはないんですよ」とフランクに話し、自身も「どうしてもジャイアンツということはなかったですよ。メジャーで自分の力を試してみたいという気持ちもありましたからね」と本音トークを展開している。

 あまりにも本音すぎて読んでいるこっちが心配になるガチンコインタビューは、自軍の終わりなき助っ人補強問題にも突っ込んでみせる。

「正直言って、最初の頃は外国人が1人増えるたびにやる気をなくしましたよ。何だ、また来たの? オレをどうするつもり? オレは二軍専用ピッチャーなのってね。でも、自分さえしっかりしていれば新しい人が入って来ることもないんだ、と考え方を変えましたね」

 おいおい大丈夫かコレ……。正直、現代の感覚でとらえたら完全なチーム批判だが、チョはさらに自身の起用法にまで言及する。

「僕自身は先発の方が好きですね。たまたま結果が良かったんで“新ストッパー”なんて言われてますけど、自分の持ち味を出すためには先発の方がいいと思うんですよ」

 このあと、「今はチームがこういう状況なので、中継ぎでも抑えでもなんでもやるつもりですよ。先発の夢を実現するのは来年かな」と一応フォローはしているが、当時この記事を読んだ際に危うい印象を持ったのも事実だ。果たして、規律が求められる日本のチームで、さらに毎晩地上波でのナイター放送があり、異常な数のマスコミに追われる巨人でうまくやっていけるだろうか……と。

 3年目の98年には、希望どおり先発ローテ入りすると序盤はチームの勝ち頭にして防御率は1点台をキープ、6月6日の完封勝利を飾ったナゴヤドームの中日戦はNHKを通じ韓国でも衛星中継された。この年、前半戦だけで6完投3完封とエース級の働きを見せるが、初めてのオールスター戦の登板でいきなり制球を乱し、一時ベンチ裏のトレーナー室へ治療のため下がるも、再びマウンドへ。全セ・野村克也監督、権藤博コーチ(当時横浜監督)との意思疎通がうまくいかなかった、もしくは無理に投げさせられたと各証言は食い違っているので真相は闇の中だが、球宴後に右ヒジの痛みを訴え、その後一軍のマウンドで背番号21が輝きを取り戻すことはなかった。

韓国から届いた悲報


2002年限りで巨人を退団した


 結局、巨人では2002年限りで契約を1年残し退団。通算成績は53試合11勝10敗11セーブ、防御率2.84。現役晩年は韓国球界でもプレーした。母国の人気女優との結婚・離婚等、私生活でもいくつかのスキャンダルに見舞われたが、引退後しばらくして、日本の野球ファンは思わぬ形でその名を聞くことになる。13年1月に39歳の若さで自ら命を絶ったのである。

 数々の強気発言の裏で、感情の起伏が激しく、もろい一面もあったという。チョ・ソンミンの日本時代の全盛期とも言うべき時期に出た『週刊宝石』98年6月4日号では、「韓国4人衆の真露パワーが日本のプロ野球を変える!」という特集が組まれ、そこには韓国選手同士で集まるとロレツが回らなくなるまで酒を飲み、カラオケを歌うチョを心配する後援者のこんな言葉が残されている。

「彼は、気が強いんですが、いちばんの寂しがり屋でもある」

 悲運のコリアン・エクスプレス。もしも、同い年のパク・チャンホのように20代前半でアメリカ球界を目指していたら? そんな妄想をしたくなるスケールと才能の持ち主でもあった。

文=プロ野球死亡遊戯(中溝康隆) 写真=BBM

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