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週刊ベースボール60周年記念企画

七色の変化球・若林忠志、死去/週べ1965年3月29日号

 

 今年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。

村上問題は、どちらが悪いのか


表紙は巨人長嶋茂雄




 今回は『1965年3月29日号』。定価は50円だ。
 1965年3月5日、七色の変化球・若林忠志が死去。57歳だった。

 若林はハワイ出身の日系人。来日して法大入りし、卒業後、コロムビアに入社したが、1935年12月、タイガース結成とともに入団した。
 その後、毎日(現ロッテ)を経て引退。28歳の遅いスタートながら通算成績は238勝142敗、防御率1.99だった。
 
 白眉といえるのは、兼任監督だった1944年だろう。戦局の悪化でシーズンは途中休止。35試合しか行われなかったが、若林はうち31試合に登板し、24完投、チームの勝利27勝のうち22勝を稼いだ。

 63年には西鉄のヘッドコーチとして優勝に貢献したが、翌64年3月、胃潰瘍で入院し手術。開幕にも間に合わなかった。

 実際には胃潰瘍ではなく、末期ガンだった。医師は胃を全摘したが、若林には3分の2を切ったと伝えた。若林もまた、自分が胃潰瘍はなく、ガンであったことは分かっていたようだが、末期とは思っていなかった。

 医師は、このとき夫人に余命3カ月と伝えたというが、西鉄の西亦次郎代表は、手術の後、病院に見舞いにいった知り合いから、執刀した医師が3本指を出した後、5本指にし、
「3のつもりだが、5はもちそうだ」
 と言ったという話を聞き、もって「5年」と思ったらしい。

 そして「あの人に無理をさせて3年で殺したくない。5年でも6年でも1年でもながらえてほしい」と、その年の10月、若林に「ヘッドコーチは空席にし、回復されたら復帰してもらいます」と言って技術顧問になってもらった。
 コーチを継続したかった若林の落胆ぶりは周囲が心配するくらいだったという。
 この際、一部新聞で中西太監督との不仲が原因の解任とも言われたが完全なデマだった。
 
 3カ月のはずが1年もった。
 若林は最後まで明るかった。末期ガンとは伝えておらず、自分が死ぬなんて思っていなかったからとも言われたが、そう見せていただけかもしれない。

 球界はスタルヒン以来のプロ野球葬を行い、若林との別れを惜しんだ。

 南海・村上雅則のサンフランシスコ・ジャイアンツとの二重契約問題は最終局面を迎えていた。

 内容はまだ明らかになっていないが、アメリカのフリック・コミッショナーから送られてきた「村上がジャイアンツと正式契約をしている。その村上が南海と契約したのは契約違反である」という抗議文に対する返書を内村コミッショナーがまとめられた。

 それまでの記事では、南海側がジャイアンツ側に怒り、村上をなんとしても取り戻す、と強気の交渉をしていたような内容だった。
 
 鶴岡一人監督が渡米して交渉した際も、ケンカ別れになったような発言をしていたが、実際には、南海側は自分たちの勘違いの経緯を説明し、せめてあと1年で帰してほしい、と“お願い”したが、契約書をたてに拒否されたようだ。

 何度も書いたが、南海がろくに契約書を読まなかったことに最大の原因があるが、1万ドル(360万円)で日本人選手を「永久に獲得した」というあたりはどうか。南海は村上入団時に、1000万円を払ったとも言われる。

 はっきりいえば、ジャイアンツは日本をなめていた。1万ドルを渡せば十分だろうと。
 意地の悪い書き方になるが、こちらは互角の立場でケンカしていたつもりだったが、実際には相手にされていなかった、ということらしい。

 3月8日、史上初めて12球団のオーナー会議があった。これまではそれだけセ、パの対立が深かったということだ。

 では、またあした。

<次回に続く>

写真=BBM


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