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プロ野球1980年代の名選手

永射保 外国人打者に嫌われた最強の“左キラー”/プロ野球1980年代の名選手

 

1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。

ソレイタは涙を浮かべ、リーは右打席に


西武・永射保


 1980年代のパ・リーグで、左打者、特に強打を誇る外国人の大砲から、とにかく嫌われたのが西武の永射保だ。日本ハムの“サモアの怪人”ソレイタは、来日1年目の4月にプロ野球記録に並ぶ4打数連続本塁打を放つと、9月にも4日の近鉄戦(日生)から5日の西武戦(西武)にかけて2度目の4打数連続本塁打。プロ野球新記録となる5打数連続本塁打が懸かった打席で、

「俺の顔を見たら涙目になっていた」

という。それまで10打数ノーヒット。この打席でも三振に倒れた。80年は最終的に16打数の対戦で1本の安打もなく5三振、81年に5安打を放っただけで、通算でも4年間で打率.116。本塁打はゼロだった。

 長く4000打数以上の打率で歴代トップに君臨していたロッテのリーも同様だった。来日1年目の77年は18打数の対戦で、1本塁打を放ったものの12三振。84年7月4日の西武戦(西武)で奇襲先発されると、なんと右打席に。メジャーではスイッチヒッターだったためだが、10年ぶりの右打席でもあり、やはり2打席とも凡退した。8月24日の西武戦(川崎)で通算2本目の本塁打を放ったときには、いつもは淡々とベースを一周するリーが、珍しくジャンプしながらガッツポーズ。のちに通算500試合登板の記念パーティーに招待されたときには、

「リーさんのおかげで選手寿命が延びた」

と言われて、「私のために、あなた(永射)の野球人生はあった」と語ったという。

 左打者は左サイド、あるいはアンダースローから、背中に当たりそうな角度からストライクゾーンへ入ってくる軌道に恐怖感すら覚えたという。このボールをマスターしたとき、

「俺はプロで10年できると思った」

というが、実際には5チームで19年の長きにわたってプレーを続けた。

 ドラフト3位で72年に広島へ入団して、74年に太平洋へ移籍。そこで、同じパ・リーグにいた阪急の山田久志が手本となった。その投球フォームのビデオを手に入れると、テレビの前に鏡を置いて研究。

「直球が山田さんほど速くないので、踏み込む足をインステップしてワンテンポ遅らせた」

など試行錯誤して、

「自分のものにするのに4年はかかった」

という。チームがクラウンとなった77年に先発、リリーフと投げまくってキャリア唯一の規定投球回到達、西武となった79年からは主にセットアッパーとして3年連続でリーグ最多登板を記録している。

時には奇襲先発も


 まさに最強の左キラーだった。ほとんどがピンチの場面でのリリーフで、

「100パーセントを求められるのが中継ぎ。1回でも失敗すると信頼を失う」

 広岡達朗監督となった82年には選手会長としてもチームをまとめ、西武は初のリーグ優勝、日本一に。左のワンポイントとして強く記憶に残るが、先発として長いイニングを投げ抜くことも可能で、その奇襲先発は相手チームを大いに揺さぶった。

「僕の記憶にずっと残る試合です」

と語るのが、前期の天王山となった6月23日の阪急戦(西宮)だ。右サイドの高橋直樹という予想を裏切って、先発として6回2/3を投げて勝利投手になっている。翌83年もリーグ連覇、連続日本一を支え、巨人との日本シリーズでも左キラーぶりを発揮した。

 86年に森祇晶監督が就任すると、世代交代が加速して、オフに大洋へ移籍。久々のセ・リーグでも同様に左のワンポイントとして機能したが、黄金時代の西武とは対照的に、暗黒時代の大洋で思うような結果は出せなかった。88年オフに福岡へ移転したばかりのダイエーへ移籍して、再びパ・リーグへ。やはり久々となる地元の九州でのプレーでもあった。

 89年は39試合に登板したが、8試合に終わった翌90年限りで現役引退。

「最後の試合は肩が飛んだようになった」

 通算登板は606試合を数える。

写真=BBM

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