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プロ野球1980年代の名選手

大杉勝男【前編】月に向かって打ったスラッガー/プロ野球1980年代の名選手

 

1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。

「さりし夢 神宮の杜に かすみ草」


東映・大杉勝男


 確かに、武勇伝も多い。だが、1980年代のプロ野球ファンにとって、ヤクルトの大杉勝男は心優しきロマンチストという印象が強いのではないか。84年限りで現役を引退したが、11月9日の引退会見で詠んだのが、

「さりし夢 神宮の杜に かすみ草」

 かつて南海などでプレーした野村克也が、「(巨人の)王(王貞治)、長嶋(長嶋茂雄)がヒマワリ、ワシは月見草」と言ったのを思い出し、だったら自分は“かすみ草”と思ったという。

「(東映で先輩だった)張本(張本勲)さんをどうするか考え、一瞬“雑草”と思った」

 など、ユーモアも忘れない。

 東映での若手時代だが、「月に向かって打て!」という名言で打撃開眼、という逸話も、あまりにも有名だ。余計な力が入って打撃が縮こまっていたプロ3年目の67年に就任して、マンツーマンで指導に当たった飯島滋弥コーチから重心の移動やリズムの重要性を説かれたものの、なかなか腑に落ちず、不振の暗いトンネルから抜け出せずにいた。

「飯島さんから『お前はホームランバッターと、首位打者を狙うようなバッターと、どっちを目指す』と言われたことがある。首位打者と答えたんですが、そうしたら飯島さんがボロボロ涙を流して『情けないことを言うな。これまで俺は、お前をホームランバッターに育てるために一生懸命やってきたんだ』と。(首位打者は)バッティングに迷い、弱気になっていたこともあっての言い訳でした」

 ある夜の後楽園球場。ぽっかりと月が左中間スタンドに浮かんでいた。打席に向かおうとすると、一塁コーチをしていた飯島コーチが駆け寄ってきた。そして月を指さし、

「あの月に向かって打ちなさい」

 少年期、野球を教えてくれたのは4歳上の兄で、倉敷工高でセンバツにも出場しているが、白血病のため19歳で死去。後を追うように亡くなった父は「大杉勝男は野球屋になるな、野球の達人になれ」という手紙を送ってくるような父だった。その後、母は道路工事の仕事などで必死に稼いだ。そんな環境が、この好漢の感受性を育んだことは想像に難くない。そして、飯島コーチの一言は、

「早く稼いで、おふくろを楽にさせたい」

 と焦る若者の心に、すっと染み入った。

「もっとも飛距離が出る45度くらいの位置に月がありました。アッパー気味に打ってみろ、ということを『月に向かって』という言葉に変えられたんでしょうね。それで完全に目が覚めました」

 すくうようなV字型のスイングを取り戻すと、初の2ケタ27本塁打。飯島コーチが死去した70年に44本塁打で初の本塁打王、翌71年も41本塁打で2年連続の戴冠で、プロ野球界きってのホームランバッターに成長して、飯島コーチの夢をかなえてみせた。

武勇伝も抜群


 ロマンチストぶりでも他の追随を許さないが、その武勇伝でも群を抜く。時空を超えてプロ野球選手をケンカさせるわけにはいかないが、腕っぷしの強さはトップではないだろうか。

 東映では張本に白仁天大下剛史らと“駒沢の暴れん坊”の呼び名をほしいままに。初の本塁打王となった70年には西鉄の超コワモテ助っ人ボレスと乱闘となり、たちまちノックアウト。それでも退場にならなかったが、審判が「大杉のパンチが速すぎて見えなかったから」だというからスゴイ。150キロの投球をストライクかボールかを見分ける審判が見えなかったということになり、いったい何キロのパンチを繰り出したのか、ということでもあるが、のちにボレスとともに戒告処分、「パンチが見えなかった」と語った審判も厳重注意に。ちなみに、意識を取り戻したボレスとは、すぐに笑顔で和解しており、そんなところもまた、単なる暴れん坊にとどまらず、ファンに愛される所以だろう。

 だが、東映が日拓を経て日本ハムとなり、東映カラーの払拭が図られると、69年から全試合出場を続けてきた中軸ながら、74年オフにヤクルトへトレードで放出される。

写真=BBM
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