1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。 81年に巧打者として新境地も
パ・リーグでホームランバッターとして成長し、ホームランの後には観客に投げキッスするなどの茶目っ気でもファンに愛された大杉勝男だったが、1975年にヤクルトへ。だが、移籍1年目は巨人の
王貞治に“一本足打法”を指導したことでも知られる
荒川博監督から言われてダウンスイングに挑戦したことで急失速。それでも、オフの猛練習で翌76年には29本塁打、打率.300と自力で復活、続く77年からは2年連続で30本塁打を超えた。
そして78年には30本塁打、97打点、打率.327でヤクルトの初優勝に貢献。阪急との日本シリーズでは、第7戦(後楽園)の6回裏に左翼ポールの上空を通過する本塁打を放ち、阪急の
上田利治監督が猛烈に抗議して1時間19分も試合が中断する一幕もあったが、8回裏に次の打席が回ってくると、
「今度こそ文句のつけようのないヤツを打ってやろうと狙っていました」
と、文句なしの本塁打を左翼席へ叩き込んで、小躍りするようにベースを一周。日本一の立役者となってMVPに選ばれた。
ただ、チームの祝勝会には参加せず、一目散に妻子が待つ家に戻ったという。家族は何よりも優先される最愛の存在だった。とはいえ、まだまだ武勇伝も健在で、その78年には死球を受けた巨人のシピンが味方の
鈴木康二朗に詰め寄ると、真っ先に飛んでいってノックアウト。乱闘中に、あの
長嶋茂雄監督にも手を出したという説もある(自身は否定)。
79年からは長打力に陰りが見え始めると、80年代はチームバッティングを徹底。81年にはプロ17年目にして、自己最高の打率.343をマークして、アベレージヒッターとして新境地を見出したかに思われたが、その頑強な体には病魔が忍び寄ってきていた。
だからと言って、性格が変わるわけでもない。82年には
武上四郎監督と激しく対立。チームが低迷する中、すべてが選手の責任であるかのように言う武上監督が許せなかったからだが、トレードを志願すると、「そうか。2、3年したら帰ってこい」と言われ、慰留するべきだと思っていたこともあって、また激怒。83年には球団から不整脈で引退を勧告されたが、医師からは現役続行のお墨付きをもらっており、同時に巨人の新監督となった王が欲しがっている話も聞こえてきた。ヤクルトへの怒りもあって迷ったが、
「もしシーズン中に不整脈が出て、新監督の王さんに迷惑をかけたら申し訳ない」
と引退を決めた。
両リーグ1000安打は達成も……
パ・リーグ通算1171安打、セ・リーグ通算1057安打。両リーグ1000安打ずつを放ったのはプロ野球で初めての快挙だったが、心残りが、ひとつだけあった。
「あまりにも突然の引退でした。最後の打席が、生涯最後のものになるって実感がありませんでした。自分に納得いかなくて……」
翌84年、巨人とのオープン戦で引退試合。5回裏に登場して三ゴロ併殺に倒れたが、
「早く終われば、と思って早打ちしました」
と晴れやかな笑顔を見せた。
本塁打は、パ・リーグで287本塁打も、セ・リーグでは199本塁打に終わっていた。ラストイヤーの83年には、
広島戦でクセモノ捕手の
達川光男がマウンドの
津田恒美(のち恒実)を鼓舞するため、「バッター(大杉)、石よ。思い切って投げ」などと言ったものだから、次の剛速球を弾き返して本塁打に。ベースを一周して本塁を踏むや否や達川をボコッ。(かなりマイルドにはなっているものの)暴れん坊ぶりも最後まで健在だったが、引退試合では、ロマンチストぶりを強く印象づける一言を残し、球場を去っていく。
「わがままなお願いですが、あと1本に迫っていた両リーグ200本塁打。この1本をファンの皆様の夢の中で打たせてやってくだされば、これにすぐる喜びはありません」
ロマンチストとしても、暴れん坊としても、球界で随一だった。ファンの夢の中で快挙を達成したのは、球界で唯一ではないだろうか。
写真=BBM