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パンチ佐藤の漢の背中!

元ロッテ・澤井良輔 現役時代の思い出は2002年開幕戦スタメン出場/パンチ佐藤の漢の背中!「1」

 

『ベースボールマガジン』で連載している「現役を引退してから別のお仕事で頑張っている元プロ野球選手」のもとをパンチさんが訪ね、お話をうかがう連載です。今回は銚子商高時代に甲子園で活躍してからドラフト1位でロッテに入団し、現在はメットライフ生命保険会社に勤務する澤井良輔さんにお会いしました。

ミーティングの“ホワイトボード”に……


パンチ佐藤(左)、澤井良輔氏


 今年3月、40歳の誕生日を迎えた澤井さんに、「俺の中では、澤井君が銚子商のユニフォームを着ていたところから、千葉ロッテにドラフト1位で入団したあたりで時間が止まっているんだよ」とパンチさん。千葉の古豪・銚子商がしばらく甲子園出場から遠ざかり、実に10年ぶり11度目の出場を決めたときの三番が、澤井さんだった。

「ロッテに入団後から今に至るまで、『ロッテの澤井』と言われるよりも『銚子商の澤井さんですか?』と言われることのほうが多いんですよ」

 その高校時代の話から、対談は始まった。

パンチ 俺らのころはまだ銚子商も強くてね。関東大会で対戦してるんだよ。銚子は大漁旗で応援でしょ。(母校)武相もお互い元気な学校だから、スタンドでケンカになっちゃってさ。応援団同士がそのくらい熱かったの(笑)。なんで低迷しちゃったの?

澤井 斉藤(斉藤一之)監督がお辞めになった後、監督が次々代わりまして。それで僕らの代になった秋、成績不振から「一からやる」ということで、篠塚(篠塚和典)さんのころコーチだった高野(高野豊人)さんが戻ってきたんです。

銚子商高時代は「西の福留(当時PL学園高、現阪神)、東の澤井」と呼ばれた高校球界を代表するスラッガーだった


パンチ そこ、聞きたいなあ。その方はどんな指導をしたの?

澤井 まず、「アップシューズを履くな」。アップシューズで野球はしないから、最初からスパイクを履け、と。それから、「(グラウンドを)右回りで50周してこい」。50周走って、キャプテンが「終わりました」と報告しに行くと、「右が終わったってことは?」。で、左回りを50周。アップだけで100周です。ポール間のダッシュも10本とかではなく、「時計の針がぐるっと1周するまで走っとけ」といった具合。午後は個人ノックで、バッティング練習はしない。それをほぼ1カ月です。「甲子園に行くから」とだけ、口酸っぱく言われていました。

パンチ それで、どうして試合に勝っていけたの?

澤井 実際、センバツ準優勝ですからね。だけど秋の千葉県大会は初戦、8回まで2対8で負けていたんですよ。「これで負けたら、この冬どんだけ走るんだよ」と言って、「絶対ひっくり返すぞ!」と奮い立ったのは覚えています。とにかく練習はつらかったけど、今もみんなで集まるたびに、「あれで甲子園に行ったんだな」って話になりますよ。

パンチ その練習が実って、3年の春夏甲子園出場。そこからドラフト1位だもんね。プロでの最高の思い出は、なんですか?

2002年の開幕戦でスタメン起用され、西武の開幕投手・松坂(現中日)と対戦した(捕手・伊東勤


澤井 プロ7年目、開幕スタメン(2002年3月30日、西武戦)になれたことですね。その日のミーティングが一番の思い出です。

パンチ ミーティング?

澤井 ホワイトボードの右端に、その日のスタメンの背番号とポジションが書いてあるんです。やっと一軍に滑り込んで開幕ベンチには入れたけど、「やっぱり補欠かな」と思いながらパッと見たら、『七番、サード、澤井』と名前がありまして。そこからは、あまり覚えていないです(笑)。

パンチ (笑)。

澤井 先輩たちに、「笑えよ」って言われて笑うんですけど、(緊張で)顔が引きつって(笑)。その日、ウチの母と姉も見に来てくれていたんです。

パンチ 結果はどうだったの?

澤井 最初の打席でフォアボールを選んだあとは、3タコ(二ゴロ、左飛、遊飛)です。フォアボールは松坂(松坂大輔)君が僕にビビったんだって今、営業のネタにさせてもらっています(笑)。

パンチ いい思い出じゃない(笑)。

澤井 なんせ、あの日の朝までは覚えているんですけど、あとはほとんど記憶が飛んでいるんです。緊張して(笑)。我に返ったのは、エラーしてピッチャーにベンチで激怒された瞬間ですね。グラブをベンチに投げつけて、厳しい言葉を僕に連発していましたね(笑)。

パンチ はっきり言う人はいるからね(笑)。まあ陰でネチネチ言われるより、そのほうがいいよね。

澤井 松坂君もすごかったけど、ソフトバンク斉藤和巳君とかね。彼は同級生で、あのへんと対戦するときは楽しみでした。でも今、やっとですよ。テレビで野球を見て、やっと普通に応援できるようになりました。

チーム内の若返りとプロ10年を区切りに引退


パンチ 引退は、自分で「もうここまで」と思ったの? それとも球団に呼ばれた?

井 浦和の寮の会議室に呼ばれました。05年の10月4日でしたね。

パンチ その前から「怪しいな」っていう雰囲気はあった?

澤井 キャンプ中には、上でも左の代打として考えていたようですし、夏前まではファームの主力として試合にも出ていたんです。それが7月、ベンチスタートだった試合で、いつもなら二死満塁でも「ベースが埋まったら澤井、行くぞ」と言って代打に出されていたのが、僕じゃなく1年目の子が代打で行ったんです。あれは野球選手にしか分からない感覚というか……自分ではもう「俺だ」と思ってレガースを付け、手袋をして「よし、行こう」というところで「代打・○○」と、別の子の名前が呼ばれる。で、その子の代わりに守備にだけ就きました。そこから確実に、試合に使ってもらえなくなったので、おそらくあのタイミングで翌年の構想外になっていたんじゃないかと思います。

パンチ よそのテストを受けようとか、そういう気持ちはなかった?

澤井 プロに入ってちょうど10年ということもありまして、「もういいかな」と思いました。7月以降、ほぼ試合に出ていなかったので、モチベーションもなかったですしね。

パンチ 俺はプロ生活5年で、みんなには「早かったね」って言われるけど、大学、社会人という階段を上がっての5年だったから、一応ひと通りやったという感じなんだ。

澤井 トータルすると10年くらいやったかな、という印象ですよね。

パンチ そうそう。澤井君の場合は高校から10年だから、結果には納得できなくても、「やったな」という気持ちにはなるよね。もちろん、悔いはあるだろうと思うけど。

澤井 そうですね。05年はちょうどボビー(バレンタイン監督)で日本一になった年なんです。サードが今江(今江年晶=現楽天)、ショートが西岡(西岡剛=現阪神)。3年目、4年目の子たちが僕らを抜いてレギュラーとして試合に出て、優勝しましたから。もう確実にチームには残れないだろうなと考えると、辞めるという選択肢が一番だったかなと思います。

パンチ 引退後は、クラブチームのコーチになったんだね。

澤井 最初は、知り合いの飲食店に勤める予定だったんです。でもちょうどそのとき、森田健作さん(現千葉県知事)が『千葉熱血MAKING』というチームを作ることになり、初代のコーチを務めてくれないかと依頼されまして。飲食店の社長さんに「ウチはいつでもいいから、野球をやってきなよ」と言っていただいて、千葉へ行きました。

パンチ そこからBCリーグの『群馬ダイヤモンドペガサス』へ?

澤井 その前に、千葉にもう一つできた『サウザンリーフ市原』というクラブチームのオーナーさんに誘われて、移籍しているんです。そのオーナーさんの持つ会社の従業員として働きながら、野球をやらせてもらいました。そこの選手が、群馬の入団テストを受けたいと言うので引率していったところ、「野手コーチがいないので、一緒にやらないか」と誘われたのがきっかけです。夫婦で群馬に引っ越し、2年間コーチを務めました。

<「2」へ続く>

●澤井良輔(さわい・りょうすけ)
1978年3月9日生まれ、千葉県出身。銚子商高では3年春夏甲子園出場で春準優勝。ドラフト1位で96年ロッテに入団し、05年限りで引退。通算成績は90試合、36安打(打率.225)、6本塁打、19打点。引退後は千葉県内のクラブチームやBCリーグ・群馬ダイヤモンドペガサスのコーチを経て、2010年からメットライフ生命保険株式会社に勤務。現在は同社宇都宮エイジェンシーオフィスのエイジェンシーセールスマネージャーを務める。

●パンチ佐藤(ぱんち・さとう)
本名・佐藤和弘。1964年12月3日生まれ。神奈川県出身。武相高、亜大、熊谷組を経てドラフト1位で90年オリックスに入団。94年に登録名をニックネームとして定着していた「パンチ」に変更し、その年限りで現役引退。現在はタレントとして幅広い分野で活躍中。

構成=前田恵 写真=小倉元司
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