週刊ベースボールONLINE

プロ野球1980年代の名選手

星野仙一【前編】「力は二流、ハートは一流」の燃える男/プロ野球1980年代の名選手

 

1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。

81年に巨人戦5勝



 1981年、中日の星野仙一は、マスコミを通して、こう巨人を挑発したことがある。

「原(原辰徳)? あんな小僧っ子に打たれてたまるかい。ワシはON(王貞治長嶋茂雄)のいたころ、V9の巨人を相手に投げてきたんだよ。今の巨人なんてファームよ」

 80年オフ、巨人では長嶋監督が事実上の解任となり、王が現役を引退。一方で、ドラフト1位で原が入団し、新たなスター誕生もあって、巨人も新時代へと突入しつつあった。対照的に、歴戦の巨人キラーは満身創痍。80年はプロ12年目だったが、明大を経てのプロ入りのため、すでに年齢は30歳を超えている。70年代後半からは故障も相次ぎ、球速が一気に落ちていた。当時、そんな自身のことを、こう表現したこともある。

「力は二流、ハートは一流」

 冒頭の発言は、ある種のリップサービスという面もあっただろうが、本音でもあっただろう。ここからは想像だが、V9時代の二軍にも見える若き巨人に対して、“一流”のハートに、ふたたび小さな火がくすぶり出したのかもしれない。そして、その火は次第に大きくなり、やがて燃えさかった。

 81年は最後の2ケタ勝利となる10勝。うち5勝は巨人戦だ。6月9日の後楽園球場で巨人戦シーズン初勝利を挙げると、本拠地ナゴヤ球場で19日に完投勝利、7月7日には札幌円山で5回4失点ながら粘り勝ち。8月26日には敵地の後楽園で完封ペースも、7回裏に宇野勝の“ヘディング事件”で1失点、それでも1年のリードを守り切って完投勝ち。9月20日にもナゴヤ球場で完投勝ちを収めた。巨人戦シーズン5勝は自己最多タイ。ただ、これが巨人から挙げた通算35勝目、そして最後の勝ち星となった。

 巨人との因縁はドラフトにさかのぼる。明大で1年生からエースとなり、2年生の秋にはノーヒットノーランを達成。法大の田淵幸一(のち阪神ほか)、山本浩司(のち浩二。広島)、富田勝(のち南海ほか)らと名勝負を繰り広げ、最終的には通算23勝を挙げた。もともとは阪神ファンだったが、巨人のスカウトから熱心に誘われたこともあり、巨人の指名を待っていたところ、巨人が1位で指名したのは同じ投手で武相高の島野修

「ホシとシマを間違えたんじゃないか」

 このときの憤りが原点だった。

若い投手陣の精神的支柱に


 1位で指名したのは中日だった。69年に入団。巨人、特に主軸の王、長嶋に対して闘志を燃やした。当時は、まだ投手分業制が確立されておらず、先発、救援にフル回転。快速球を武器に70年に初の2ケタ10勝、71年からは2年連続で9勝にとどまるも、巨人戦では71年から73年にかけて破竹の10連勝もあった。セーブ制度が導入された74年が圧巻だ。49試合に登板して15勝10セーブ、うち先発が17試合で7勝、救援では8勝10セーブ。セ・リーグの初代セーブ王に加えて沢村賞にも輝いた。中日も巨人のV10を阻むリーグ優勝。優勝決定試合では完投で胴上げ投手となった。

「ただ優勝したいだけ。必死に投げた。(救援登板も)今みたいに1イニング限定じゃないから密度が違う。(沢村賞は)フル回転したことが認められたんでしょう」

 プロ6年目にして、すでに巨人戦の勝ち星は通算17勝となっていた。

 翌75年は17勝5敗でリーグトップの勝率.773をマーク。だが、その後は故障を繰り返すようになる。それでも、77年には自己最多の18勝を挙げ、特に9月21日の巨人戦(ナゴヤ)では、敗れれば巨人の胴上げを許す展開で中2日、153球の完投勝利。

「俺の球にも、こんな力が残っていたのか」

 と笑った。81年からはコーチ兼任に。それでも81年は投手陣の中心にいた。だが、翌82年は投げては3勝5敗。ただ、ベンチにいるといないのではチームの士気が違った。若い投手陣にとって、いざという場面で、その存在感は大きかったのだ。

写真=BBM
週刊ベースボール編集部

週刊ベースボール編集部

週刊ベースボール編集部が今注目の選手、出来事をお届け

関連情報

みんなのコメント

  • 新着順
  • いいね順

新着 野球コラム

アクセス数ランキング

注目数ランキング