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プロ野球1980年代の名選手

星野仙一【後編】監督としても燃え続けた闘志/プロ野球1980年代の名選手

 

1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。

「私は、ついに燃え尽きました」



 1982年、中日は8年ぶりのリーグ優勝。前回の優勝ではエースとしてチームを引っ張ったプロ14年目の星野仙一にとって、この優勝は引退への花道となった。

「投手陣に都(都裕次郎)、小松(小松辰雄)、郭源治と、若い奴らがそろった。あいつらの球は勢いよくビュンビュンいくけど、こっちはフラフラっていってボソリと落ちていく(笑)。一緒に投げていてイヤになるよ。もう、こいつらの時代だな、って思いましたね」

 81年からはコーチを兼任。

「もう若手も大丈夫。だが、技術的にも精神的にも、まだやることがいっぱいある」

 故障で球速が落ちた分、磨いたのは投球術だった。打者との駆け引きだけでなく、いわゆる“顔”での威圧も武器。

「ひょっとしたら1年目は180キロ出てたかもね(笑)。お前は顔だけ180キロだって言われるだろうけど」

 のちに快速球で鳴らした若手時代を笑って振り返っているが、V9巨人に立ち向かった“顔”は最後まで健在だった。

 巨人戦は通算35勝31敗。勝ち星では金田正一(国鉄)や平松政次(大洋)、チームの先輩でもある杉下茂(中日)らに続く歴代6位だが、勝ち越した投手では51勝47敗の平松に次ぐ2位だ。ちなみに中日の歴代最多は、のちの教え子でもある山本昌(山本昌広)の43勝(45敗)だが、実働年数では圧倒的な差がある。わずか14年で35勝を挙げての勝ち越し。やはり中日きっての“巨人キラー”と言えそうだ。

 現役を続けながらコーチも兼ねてきたが、近藤貞雄監督との確執もあり、引退後はチームを離れることになった。82年11月21日のファン感謝デーで挨拶に立つと、マイクを前に、涙を浮かべながら語った。

「長い間ありがとうございました。私は、ついに燃え尽きました」

“燃える男”と呼ばれた右腕は、自らを「燃え尽きた」と表現した。ただ、燃え尽きたのは、あくまでも“選手として”だった。解説者を経て、86年オフに監督として中日へ復帰。わずか4年間のブランクだった。やはりターゲットは巨人。いきなり、こう断言した。
「いまは巨人軍ではなく、巨人“群”なんです。群れにすぎんのですよ、いまは」

情熱が人を動かすが信念


「殴ってでも、憎まれてでも、このチームを戦う集団に変える」

 闘志は再び燃えさかった。就任するや否や、ロッテで2年連続3度目の三冠王に輝きながら移籍を志願していた落合博満の獲得に動く。

「オチ(落合)を巨人に取られたら、10年は優勝できん」

 巨人への移籍が有力視される中で、素早く具体的な交換要員を挙げた。そして、投手の後輩でもある牛島和彦ら4人と落合1人のトレードが成立。落合は「男が男に惚れて(中日に)来ただけです」と笑顔を見せた。

 87年にはドラフト1位の近藤真一が初登板ノーヒットノーランを飾る快挙もあったが、裏返せば一軍に合流したばかりの高卒ルーキーを巨人戦の先発マウンドに上げなければならないほど投手陣が苦しかったということでもある。最終的には優勝した巨人に8ゲーム差の2位に終わった。

 翌88年は開幕戦から遊撃に据えた高卒ルーキーの立浪和義が新人王に輝く活躍、序盤は不振に苦しんでいた落合も夏場には復調して勝負強さを発揮する。“鉄拳”で鍛え上げた中村武志は司令塔に成長し、前年からクローザーに配置転換していた郭がプロ野球記録を更新する44セーブポイントをマーク、アメリカ留学に送り出していた山本昌を帰国させると無傷の5連勝。監督に就任したときに撒いた種が、すべて実を結んだかのようなリーグ優勝だった。

 情熱が人を動かす。これが信念だった。“燃える男”は、やがて“闘将”と呼ばれるようになる。選手として「燃え尽きた」と言いながらも監督として燃え続けたように、その魂は、まだ燃え続けている気がする。

写真=BBM
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