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プロ野球1980年代の名選手

トニー・ソレイタ 2度の4打数連続本塁打を記録した“サモアの怪人”/プロ野球1980年代の名選手

 

1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。

すさまじいパワーを誇る男



 1980年代の前半、まだまだパ・リーグは人気面ではセ・リーグに遠く及ばす。それは最大の人気球団でもある巨人と本拠地を同じくする日本ハムも同様だった。もし80年から日本ハムでプレーしたソレイタが、セ・リーグで同様に暴れ回ったとしたら、のちに“旋風”と表現されるほどの存在となったのではないだろうか。

 来日1年目からプロ野球記録に並ぶ4打数本塁打を2度、2年目にはリーグ優勝に貢献するMVP級の活躍。ついた異名は荒々しかったが、性格はマジメで、すさまじいパワーからは想像もつかないが、苦手な飛行機での移動では目をつぶって話そうともせず、一方で新幹線は大好きという、かわいらしい面も持った“サモアの怪人”だった。

 父は軍人で、サモアにいたのは8歳まで。父の仕事でハワイへ移って、初めて野球に触れたという。メジャー5チームを渡り歩き、80年に日本ハムへ入団した。4月20日の南海戦ダブルヘッダー第2試合(大阪)で1死球を挟む4打数連続本塁打。9月にも4日の近鉄戦(日生)で9回表に本塁打を放つと、翌5日の西武戦(西武)で3連発、2試合にまたがる4打数連続本塁打とした。ただ、5打数連続に挑んだ9回表には、それまで10打数の対戦で無安打に抑えられている左腕の永射保の前に撃沈。新記録はならなかった。

 打ち出したら止まらない一方で、大沢啓二監督が「あれだけ当たらんもんかな。見ているほうが疲れるわ」とボヤくほど、当たらないときは徹底的に当たらず。後期の開幕戦でもあった7月4日のロッテ戦(川崎)で、いきなりプロ野球記録に並ぶゲーム5三振を喫したこともあった。空振りも豪快だったが、勝負強さも持ち味で、3ラン本塁打が多かったことから“ミスター3ラン”とも呼ばれている。最終的には自己最多の45本塁打も、121三振で三振王。打率.239と安定感を欠きながらも95打点を残すなど、どんな打者だったかが数字だけで見当がつく。

 ただ、変化球に慣れてきた翌81年からは三振を着実に減らしていく。その81年には、長所を残しながら短所を克服することに成功。持ち前の長打力と勝負強さに、打ち始めたら止まらない勢いもそのままに、一定の安定感を維持したことが、日本ハムとなって初のリーグ優勝へとつながっていった。

81年に打撃2冠で優勝の立役者に


 81年は“同期”のクルーズ、主砲の柏原純一とクリーンアップを形成して、4月21日のロッテ戦(後楽園)から5試合連続本塁打、4月だけで10本塁打、23打点、打率.354と大当たり。8月にも23打点をマークして、9月には13日からの8連勝のうち4度の殊勲打、8連勝目となった22日の西武戦(西武)では後期優勝に王手をかける2本塁打も放った。

 最終的には44本塁打、108打点で打撃2冠。打率.300に加え、勝利打点17で当時のタイトルだった最多勝利打点にも輝いているが、MVPはチームメートの江夏豊に、指名打者のベストナインも本塁打王を分け合った南海の門田博光に譲っている。翌82年が唯一の全試合出場で唯一のベストナイン。続く83年は36本塁打を放ちながら自己最少の77三振も、打率.252と安定感を欠いた。残り5試合となった時点で大沢監督に、

「次も日本ハムでやりたい。力の続く限り日本ハムで現役を続けたい」

 と訴えたが、大沢監督の勇退とともに退団。

「サモアに帰って将来は青少年のために野球クリニックを開くのが夢」

 と語っていたが、90年に射殺された。土地取引のトラブルに巻き込まれたと伝わる。

 ホームラン賞などの賞品は、コーチや通訳、広報担当など、世話になった人に惜しげもなく分けてしまい、日本語も積極的に覚えてサインも平仮名と片仮名のバージョン違いを作っていたという。家族思いで子どもを球場に連れてくることも多かったが、かわいがるだけでなく、時には厳しく叱る姿も見られた。そんな人柄の男が、故郷の青少年チームを率いて再び来日する姿は見られなかった。

写真=BBM
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