大物選手がFA権を行使して移籍してくる代償として、その大物選手の旧所属球団が自分を指名する――。それは、チームが28人のプロテクトリストから自分を外したから。しかし、それで出場機会が飛躍的に増えるケースもある。人的補償で移籍した印象深い選手を取り上げていく。 新天地で盗塁王を獲得
人的補償による移籍がなければ、そのプロ野球人生は平凡なまま終わっていたかもしれない。
福地寿樹にとって西武からヤクルトへの移籍は、それくらい大きな意味を持っていた。
杵島商から1994年にドラフト4位で入団した
広島では、2年目の95年から4年連続でウエスタン・リーグ盗塁王に輝くなど、早くから韋駄天ぶりを発揮。2000年に一軍で11盗塁をマークすると、そこから4年連続で2ケタ盗塁を記録し、03年にはセ・リーグ2位の20盗塁を決めるなど足のスペシャリストとして鳴らした。
だが、ケガもあってレギュラー定着には至らず、06年の開幕直前にトレードで西武へ移籍。新天地でプロ13年目にして自己最多の25盗塁をマークすると、翌07年には28盗塁と、その数をさらに増やした。
ところがその年のオフ、ヤクルトからFAで西武入りした
石井一久の人的補償で、ヤクルトに移籍。これが福地にとっては、本当に大きな転機となった。
高田繁新監督の目指す機動力野球の申し子として、シーズン途中から一番に定着すると、
赤星憲広(
阪神)との熾烈な争いを制し、42盗塁で「入団当初の目標だった」という盗塁王を獲得。プロ15年目で初めて規定打席に到達し、リーグ6位の打率.320とバットでも大いにアピールした。
背番号が「29」から「3」に変わった翌09年も42盗塁で2年連続盗塁王に輝き、ヤクルトにとって初のクライマックスシリーズ(CS)進出に貢献。だが、10年途中で高田監督が休養すると、チーム事情からベンチスタートを強いられることが多くなる。
それでも自慢の快足は衰えを知らず、貴重な控えとして、その後も2ケタ盗塁を続けたが、12年シーズン終盤に引退を表明。チームがCS出場権を争っていたこともあり、引退試合を固辞して最後までひたむきにプレーを続けた。
結局、引退セレモニーはヤクルトとしては異例のファン感謝デーで行われ、降りしきる雨の中「常に全力で走り続けてきた19年間、本当に幸せな野球人生でした」とファンに別れを告げた。
引退後はヤクルトで指導者に転身。15年には一軍コーチとして、現役時代は味わうことのできなかった優勝の美酒に酔った。
写真=BBM