1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。 ヘルメットが吹っ飛ぶフルスイング
1980年代を迎え、81年にリーグ優勝を果たした日本ハム。長く優勝から遠ざかっていたチームにとって、19年ぶりの美酒だった。東映から日拓となって7色のユニフォームで戦ってみたり、日本ハムとなってからは東映カラーを払拭するべく
張本勲ら主力を放出してみたり、監督や選手も参加しての結婚式を企画してみたりと試行錯誤の歴史を経ての優勝には、
大沢啓二監督や主砲の
柏原純一らに加え、クローザーとして加入した
江夏豊の存在も大きかった。
ただ、80年代に入ったと同時に、新時代を感じさせたのは強打の助っ人2人ではないだろうか。1人は“サモアの怪人”
ソレイタ。もう1人が開幕の寸前に“滑り込んだ”プエルトリカンの
トミー・クルーズだ。豪快な打撃で本塁打と三振を量産したソレイタに負けず、ヘルメットが吹っ飛ぶほどのフルスイング。それでいて三振は少なく、二塁打が多い堅実な中距離ヒッターだった。
1年目の80年、柏原、ソレイタと強打者が並ぶクリーンアップで四番打者を任される。変化球の多い日本の投手に苦しみ、前期は低迷したが、後期には克服。7月29日の南海戦(大阪)から5試合連続本塁打もあったが、9月16日の阪急戦(後楽園)で顔面に死球を受けて離脱。それでも翌17日の同カードで3安打を放って、後期優勝を狙うチームで四番打者として出場を続けた。8月は9本塁打で打率.388、9月は6本塁打で打率.323。38度の高熱をおしての出場もあり、
「優勝のチャンスがあるなら、そんなことは言っていられない」
と熱く語ったが、全日程を終了すると、
「来シーズンは首位打者を狙う」
と言いながらも、まだプレーオフの可能性も残っているうちに、
「胸に痛みがある。治療したい」
と帰国してしまった。結果的には後期は近鉄が制したため問題にはならなかったが、愛嬌のあったソレイタとは対照的にドライな一面も。打撃こそチームバッティングだったが、打撃コーチに食ってかかることもあり、低迷した82年に契約がシーズン限りと噂されると打ち始めるなど、かなりの気分屋でもあった。
ただ、その後もシーズンが閉幕するや否や帰国するのは変わらず、家族を故郷に残しての単身赴任だったが、大の愛妻家で、金髪でスタイル抜群というミルタ夫人との国際電話の後は、しばらくニヤニヤしていたというから、80年の“緊急帰国”も「終わりよければすべてよし」といったところか。実際、翌81年は四番の座は柏原に奪い返されたものの、主に三番打者としてリーグ最多の30二塁打を放って、リーグ優勝に貢献している。
三冠王ブーマーに迫った84年
83年にリーグ3位の打率.320をマークしたが、オフにソレイタが退団。新たに加入したブラントが不発で、柏原にも衰えが忍び寄ってきた。
そんなプレッシャーもかかった翌84年だったが、阪急の
ブーマーが三冠王へと突き進む中、西武のスティーブとともに打率で猛追。メジャーでは兄のホゼ・クルーズも首位打者を争っていて、「日米兄弟首位打者か」と騒がれたが、兄とともに首位打者には届かず。それでも29本塁打、96打点、打率.348で、打撃3部門すべてでキャリアハイ。やはり自己最多の36二塁打も2度目のリーグトップとなり、外野のベストナインにも選ばれた。
ちなみに、弟の
ヘクター・クルーズは83年に巨人へ入団も、結果を残せず1年で退団している。3兄弟そろってカージナルスに在籍したことでも知られるが、実は14人きょうだいだったという。
安打を広角に打ち分けて、左打者ながら左投手を苦にせず。その84年は満塁の場面では打率.429など、勝負強さも光った。
「自分はホームランバッターではないから、ジャストミートを心がけている」
翌85年には8月に月間42安打の球団新記録、リーグ5位の打率.321でシーズンを終えたが、助っ人に長打力を求めた
高田繁監督の構想から外れ、オフに退団した。
写真=BBM