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平成助っ人賛歌

デストラーデ 松井秀喜より10年早くサクセスストーリーを実現させたスラッガー/平成助っ人賛歌【プロ野球死亡遊戯】

 

平成元年シーズン途中に来日


左右両打席から長打を放ったデストラーデ


 平成初期を代表する外国人選手は誰だろうか?

 最近はあらゆるジャンルで「平成最後」という言葉が使われているので、今回はこの30年間を振り返る意味も込めて「平成最初」に来日して活躍した助っ人選手を取り上げてみようと思う。平成元年の1989年は打率.378で首位打者を獲得した巨人ウォーレン・クロマティ、49本塁打を放った近鉄のラルフ・ブライアントと史上初めてセ・パMVPに外国人選手が同時選出された。ただ、クロマティは完全に昭和のイメージだし、ブライアントも昭和63年に中日で日本のキャリアをスタートさせている。となると、平成元年の助っ人として多くの野球ファンが思い出すのが、この年、西武ライオンズへ入団したあの“カリブの怪人”ではないだろか?

 オレステス・デストラーデである。西武黄金時代を支えたキューバ出身の最強スラッガーは、意外にもシーズン途中の6月に来日している。同年4月から税率3パーセントの消費税法が施行され、1円玉不足がニュースになっていたあのころのニッポンに降り立った27歳の無名の若者。前年オフは阪神タイガースの新外国人候補としてサンケイスポーツに報じられるも実現せず、89年開幕直後にバークレオの不振に頭を悩ませた西武が獲得したのがデストラーデだった。今となっては懐かしい言葉の“第3の外国人”扱いだ(外国人選手の一軍枠が2人までの時代、保険的な意味合いも込めて3人目の助っ人をこう呼んでいた。前述のブライアントも中日では“第3の外国人”のため近鉄移籍が実現)。前年のパイレーツでは打率.149、1本塁打のデストラーデの来日を騒ぐマスコミはほとんどなく、あくまで緊急補強扱いだった。

斎藤雅樹(巨人)、堂々の10連続完投勝利!」の見出しが表紙に踊る89年7月24日号の『週刊ベースボール』名物コーナー「BALL PARK EYE」の中では、“将来型”と“現在型”という第3の助っ人記事が掲載されている。同時期に入団したオリックスのブラウンは将来期待型で、西武のデストラーデは現在期待型。6月20日のデビュー戦で一発も「最初の10試合ほどは慣れずに苦しんでいたが、ここへ来て3試合連続アーチを放つなど、清原が故障で本調子でないところを補う活躍を見せた。デストラーデが打ち出した西武は上昇気配。“第3の外人の年”のV争いをどこまで左右するか、ちょっとした見ものなのである」とその打棒に期待を寄せている。

3年連続本塁打王を獲得してメジャー復帰


90年(写真)から3年連続日本シリーズ初戦第1打席で本塁打を放つなど、大舞台でも活躍


 バブルの空前の好景気で湧き、超魔術Mr.マリックのハンドパワーがブームになり、年末には日経平均株価3万8915円の最高値を記録するお祭りムードの日本列島において、幼少時にキューバからアメリカへの亡命を経験していたデストラーデはハングリーだった。7月には2度の3試合連続弾。9月には8本塁打、19打点をマークして月間MVPを受賞。メガネ姿に弓を引くようなガッツポーズも人気となり、わずか83試合で32本塁打、81打点を叩き出したのである。リーグ優勝こそ近鉄のブライアントの4打席連発弾で逃すも、西武は「秋山幸二清原和博、デストラーデ」のAKD砲を完成させ、1990年(平成2年)から、3年連続日本一を含むリーグ5連覇を達成する。

 名将・森祇晶監督のもと、工藤公康渡辺久信ら強力投手陣をそろえ、石毛宏典辻発彦伊東勤といった実力派が脇を固め、そのど真ん中に全員20代の若きAKD砲が君臨するメンバーはまさにプロ野球史上最強チームと称された。なお90年の打てて、走れて、かえせるAKD砲は3人で「計114本塁打、291打点、72盗塁」と全員30発以上、2ケタ盗塁をクリア。デストラーデは42本塁打、106打点で二冠獲得、NPB初のスイッチヒッターでの本塁打王が誕生する。日本シリーズでもセ・リーグ独走優勝の巨人を4連勝で一蹴して、最強西武の名を日本中に知らしめた。初戦の第1打席で槙原寛己から3ランアーチをかっ飛ばし、MVPに輝いたデストラーデは直後に週刊ベースボール独占インタビューでご機嫌にこう語っている。

「MVPはもちろん狙っていた。生涯最高の喜びだぜ!」と。もちろん「近鉄の野茂英雄は最高のピッチャー。引退する村田兆治は本当の競技者で尊敬しています。攻撃の選手では、アキ(秋山)は凄い選手だと思う。彼は何でもできるオールラウンドの、偉大なプロフェッショナルな選手で尊敬している。人間的にも素晴らしい男だ」なんてパ・リーグのライバルやチームメートたちへ称賛を忘れない。当時23歳の清原には「自分は通訳を通じで彼に上半身を鍛えることを勧めているんだ。野球の選手が大きくて強力であることはもうタブーではなくなったからね」なんつって、もしや後年の清原の肉体改造はデストラーデのひと言も関係あるのでは……と突っ込みたくなるアドバイスを送っている。

 ロッカールームでは石毛と秋山に挟まれ良好な関係を築き、日本球界に居場所を見つけた男は、90年から92年まで3年連続本塁打王を獲得。日本シリーズでも90年巨人、91年広島、92年ヤクルトと3年連続シリーズ第1戦第1打席ホームランを記録。背番号39のその驚異的な勝負強さはアメリカ球界からも評価され、93年から育ちの地・フロリダに出来た新興球団マーリンズにスカウトされてメジャーへ。ちなみに同球団から日本に派遣されたスカウトは元大洋のカルロス・ポンセで、デストラーデとヤクルトのジャック・ハウエルを見に来たという。

 キューバ人の代表としても恥ずかしくないプレーをしたいと意気込む30歳のジャパン逆輸入スラッガーは、MLB復帰1年目から、20本塁打、87打点と活躍してみせた。当時の週刊ベースボールでは、故・パンチョ伊東氏のフロリダ突撃取材記『新球団マーリンズの歴史的第1戦 四番デストラーデはデビューした!!』という特集記事が組まれていることからも、日本の野球ファンの注目度の高さがうかがい知れる。

95年に日本球界復帰も……


95年、イチローのユニフォームを手にするデストラーデ


 94年5月25日には成績不振を理由にフロリダ・マーリンズから解雇され、その年の巨人と西武の日本シリーズに合わせて来日。「日本球界にカムバックするならボクは東京に留まっていたいし、ドーム球場をなかなか気に入っているんだ。西武か巨人で復帰したいね」なんてリップサービスをかまし、実際に95年には3年ぶりの西武復帰も、体重オーバーで往年のキレはなく、ブレンダ夫人との離婚騒動で6月15日限りで退団。公式戦の投手登板という意外なファンサービスもあったが、カリブの怪人伝説は家庭問題というまさかの形で終わりを告げた。

 しかし、その後も日本のメディアには頻繁にデストラーデが登場している。なぜなら、この1995年(平成7年)は日米球界にとって歴史の変わり目のシーズンだったからだ。元近鉄のエース野茂英雄がドジャースでトルネード旋風を巻き起こし、メジャー・リーグへの注目度が格段に上がっていた。週刊ベースボールのインタビューでも、イチローの可能性を語り、伊良部秀輝はノーラン・ライアン級と賛辞を贈る最強助っ人。彼らとはライバルとしてしのぎを削り、直近のメジャーでもプレーしたデストラーデは当時の日米球界の差を最も正確に計れるプレーヤーでもあった。

 いわば「NPBで本塁打王のタイトルを獲り、チームも日本一になって、メジャー移籍して四番を打つ」というサクセスストーリーを松井秀喜より10年早く実現させたのが、平成初期のデストラーデだったのである。

文=プロ野球死亡遊戯(中溝康隆) 写真=BBM
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