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プロ野球1980年代の名選手

中畑清【前編】どこまでも明るく、“アンチ”も虜にした男/プロ野球1980年代の名選手

 

1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。

80年代きっての人気者


巨人・中畑清


 近年は元日営業の百貨店も多い。寒風も吹きつける元旦の夜明け前から列に並んでいた客が、開店と同時に福袋へと殺到する光景は、正月の風物詩ともいえそうだ。最近はめっきり減っているようだが、1980年代の百貨店では、特にプロ野球のシーズンオフ、もっぱら最上階の特設会場とかで、しばしば現役選手のサイン会が催されて、サインを求めてファンが殺到する光景が見られた。

 プロ野球が閉幕すると「今年は誰が来るのかな」と楽しみにして、サインこそもらえなかったが、大人たちの隙間からプロ野球選手を見ることができた当時の少年も多いだろう。普段はテレビか球場でしか見られないプロ野球選手がユニフォーム姿で日常に突如として姿を現すインパクトは強烈で、球場だとスタンドから見下ろす格好になるため思ったよりも大きく見えず、声がわりもしていない甲高い声でヤジり倒す小僧が、その偉容を思い知らされて、あこがれを強めていく。これもまた、ちょっとした冬の風物詩だったといって差し支えあるまい。

 そんなサイン会に、巨人の中畑清が来ようものなら、ファンの殺到する勢いといったら近年の福袋とは比べるべくもない(失礼)。係の人が気遣って入場制限を申し出ると、

「大丈夫。右手が動かなくなったら左手で書きますから。どんどん入れてください」

 と笑顔で応えたという。当たり前だが、右手も左手もプロ野球選手にとっては商売道具だ。どこまでも明るく、応援してくれるファンへの感謝を忘れることのなかった男だった。

 もう少し、当時の話。巨人ファンも多かった一方で、それと同じくらい、巨人を親の仇でも見るかのようににらみつける“アンチ”もいて、近年も同じ傾向にあるが、もっと当時は極端だった気がする。

 そんな“アンチ”でさえ、「巨人は嫌いだけど、中畑は嫌いじゃない(実は大好き)」という向きも少なくなかった。この点、あこがれだった長嶋茂雄と似ている。“四番・サード”としては不動の後継者にはなれなかったが、キャラクターでは間違いなく後継者だった。ただ、スター街道を突き進んだ長嶋の一方で、プロ入り後は苦労を重ねた。それもまた、この男の魅力を味わい深いものにしている。

 駒大では“東都の長嶋”と呼ばれ、75年秋のドラフトでは事前に巨人の1位が確定的と報道されていたが、実際は3位。1位は銚子商高の篠塚利夫だったことで、憤った。

「なんで高校生の下なんだ」

 ともに“駒沢三羽ガラス”と呼ばれた平田薫二宮至は指名されなかったことも火に油を注いた。最終的には、平田と二宮をドラフト外で入団させることを条件に、長嶋の率いる巨人へ。だが、鼻息が荒かったのも、そこまでだった。1年目の76年は二軍で新人王となったが、一軍出場はなし。オフに駒大時代から交際していた夫人と結婚、その夫人のためにも一軍出場に燃えたが、78年までは二軍が定位置だった。

口グセは「絶好調!」


 78年オフ、クラウン(翌79年から西武)へのトレードが決まりかけていたが、日米野球で2ラン。視力が0.5程度しかなく、

「試合前にコンタクトをなくしちゃって、かあちゃん(夫人)に持ってきてもらった。それをつけたら、いつも以上に球が見えてね。愛のパワーだね」

 そんな“愛のパワー”で首の皮一枚つながると、翌79年には一軍で三塁の定位置をつかむ。新人王の可能性もあったが、中日の“スピードガンの申し子”小松辰雄の剛速球を右手の人さし指に受けて骨折、離脱して届かなかった。

 ある日、長嶋監督から「調子はどうだ、キヨシ」と聞かれたことがあり、こう応えた。

「まあまあです」

 渋い顔をしたのが土井正三コーチだった。

「そんなんじゃ使ってもらえないぞ。いつも元気よく『絶好調です』と答えろ」

 実際、まあまあの調子だったのだろう。だが、この言葉はチャンスをつかむためだけでなく、調子が芳しくないときの自分を奮い立たせる口癖となっていく。

「絶好調!」

“絶好調男”の快進撃が始まった。

写真=BBM
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