週刊ベースボールONLINE

プロ野球1980年代の名選手

真弓明信【後編】日本一イヤーに自己最多の34本塁打/プロ野球1980年代の名選手

 

1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。

3ポジションでベストナイン


阪神・真弓明信


 阪神が21年ぶりのリーグ優勝、2リーグ制となって初の日本一に輝き、猛虎フィーバーに沸いた1985年。トリプルスリーを目標に掲げたリードオフマンの真弓明信だったが、開幕前に右翼へとコンバートされる。慣れないポジションを守ることでバットが湿るケースも少なくないが、動揺はなかった。

「打撃を生かすためのコンバートと思えば、どうってことないさ」

 むしろ、遊撃手や二塁手とは違った視点で試合を見たことで、野球観が広がり、これが打撃の向上にもつながった。盗塁は激減して、目標の30盗塁には遠く及ばなかったが、それほど走る必要性がなかったためとも言えそうだ。

 高校時代からの親友(腐れ縁?)でもあり、大洋へ移籍していた若菜嘉晴との本塁クロスプレーで左の肋骨を骨折して1カ月ほど離脱しながらも、最終的には自己最多の34本塁打、84打点に加え、リーグ5位の打率.322。外野のベストナインに選ばれたが、遊撃、二塁に続く受賞で、3ポジションでベストナインに選ばれたのは二塁、一塁、三塁で受賞したロッテ落合博満に続くプロ野球2人目、内野と外野を合わせての3ポジションでは初となる快挙だった。

 10月16日のヤクルト戦(神宮)で阪神の優勝が決定。三番からバース、掛布雅之岡田彰布と並ぶクリーンアップ全員も30本塁打を超えていたが、一番から破壊力を繰り出す打線は猛威を振るい続けた。ちなみに、翌17日の同カードには二日酔いで出場。もちろん一番打者としての出場だったが、始球式の少年が投げた球を思わず打ってしまう珍事もあった。ただ、その後の西武との日本シリーズでも攻守にペナントレースの勢いは変わらず。打率.360、2本塁打で日本一に貢献して、優秀選手にも選ばれている。

 しかし、すぐに阪神は斜陽となる。88年には2度目の全試合出場も、シーズン途中にバースが、オフには掛布も去った。89年からは腰やヒザの故障も続き、出場機会を減らしていく。ただ、代打がメーンになってからも勝負強さは健在だった。94年には、わずか17安打ながら30打点。6月1日の広島戦(甲子園)では代打逆転満塁本塁打を放って、

「野球の神様が打たせてくれた」

 と声を弾ませた。だが、95年オフに戦力外通告。現役続行を希望して他球団のオファーを待ったが、かなわず。現役生活23年、42歳でユニフォームを脱いだ。

独特の打撃フォームを誕生させた疑問


 バットを当てにいくタイプではなく、しっかりと振り切る強打者タイプだったが、安定感も兼ね備えた巧打者でもあった。その独特の構えを誕生させたのは、ひとつの疑問だった。打撃指導では、よく「開くな」と言われるが、これを意識し過ぎると構えから閉じてしまい、かえって早く開いてしまう。最後は開かなければバットは振れない。では、“開く”ギリギリとは?……80年代を迎えるにあたり、これを中西太コーチと追求した。

「僕は左足を着くのが早くて、そこからボールを見極めてタイミングを計っていくタイプ」

 と自らを分析する。

 着地した左足とバットのグリップとの、いわゆる“割れ”は常に意識。腰と肩は、やや開き気味に構える。最初から開いていても、アウトコースを打つ場合には自然に必要なだけ左サイドが入ってくる、という考え方に立った。もともと速球やインコースへの対応は得意だったが、それでも速球に振り遅れないように、最短距離でヘッドを走らせるのを徹底。変化球でタイミングを外されたときには、頭や上体が投手の方向へ突っ込み気味になるため、左ヒザを突っ張って、頭や上体を捕手の方向へ戻すような感覚で体勢を維持して、タイミングを合わせていった。

 身長174センチ。プロ野球選手としては恵まれた体格ではない。芽が出るのにも時間を要したが、天性のバネと人一倍の練習量で23年にもわたる長い現役生活をまっとうした。通算1888安打、292本塁打。初回先頭打者本塁打は通算38本を数える。

写真=BBM
週刊ベースボール編集部

週刊ベースボール編集部

週刊ベースボール編集部が今注目の選手、出来事をお届け

関連情報

みんなのコメント

  • 新着順
  • いいね順

新着 野球コラム

アクセス数ランキング

注目数ランキング