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プロ野球1980年代の名選手

野村収 プロ初の12球団から白星を挙げた流浪の右腕/プロ野球1980年代の名選手

 

1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。

プロ野球で初めて12球団から白星


阪神・野村収


 1980年代は、もちろん現在のような交流戦などはなく、12球団すべてからペナントレースで白星を挙げることは、なかなかに難しい。まずは、両リーグで2チームずつを経験する必要がある。そして、その2チーム目で同リーグの古巣に投げ勝ち、それを両リーグで完遂しなければならない。

 移籍は運に左右される。移籍してきた選手に対しては、まだまだ“外様”というイメージもあった時代だ。新天地では、そんな逆風を覆すだけの結果を残せなければ、活躍の場は確実に失われていく。チームを渡り歩くと簡単に言っても、1年ごとに移籍を繰り返すというのも稀だから、4チームの第一線でプレーするには、ある程度の実働年数も必要だ。

 運と実力を兼ね備える、というのとも少し違う気がする。もしかすると、実力は一定のレベルを超えていれば成し遂げられるかもしれない。ただ、運に関しては、移籍を繰り返す、という、運がいいとも悪いとも言い切れない、独特な運命の塩梅のようなものが整わなければ、達成できない快挙であることは確かだ。

 83年5月15日、そんな快挙をプロ野球で初めて達成したのが、このときは阪神にいた野村収だった。その大洋戦(甲子園)で、7回を抑えて勝利投手に。ちなみに83年は異例のシーズンで、その大洋で古賀正明がシーズン終盤に古巣の巨人に勝ってプロ野球2人目に。これが古賀にとっては最後の白星だったが、古賀より約5カ月前の達成で、

「第1号というのは気持ちがいい」

 と笑った。

 ドラフト1位で69年に入団したのが、その大洋だった。だが、芽の出ないまま72年にはロッテへ移籍すると、1年目から14勝を挙げてブレーク。翌73年には失速も、日本ハム移籍2年目の75年からは2年連続で2ケタ勝利を挙げた。75年はリーグトップの勝率.786もマーク。78年に先発投手陣の強化を図る別当薫監督に指名されてトレードで大洋へ復帰すると、やはり1年目から自己最多の17勝を挙げてキャリア唯一のタイトルとなる最多勝に輝き、カムバック賞も贈られる。鉄アレイを持ち歩いて鍛えたことで手首が柔らかくなり、シュートやスライダーのキレが増したこともプラスとなった。

 エースは巨人キラーの平松政次だったが、

「自分のピッチングができなくなってしまう」

 と、対照的に巨人は苦手。阪神には無傷の6連勝だったが、巨人には5連敗を喫していて、通算でも3勝しか残していない。

「俺は遅咲き、大器晩成」

 と語っていたが、浮き沈みが激しいのも特徴で、80年には15勝を挙げたものの、翌81年には急失速。チームの若返りという方針を受けて、83年に阪神へ。36歳となるシーズン、のべ5チーム目となる新天地だった。

速球にこだわり続けて


 この前後から、52年のヘルシンキ五輪で銀メダルに輝いた橋爪四郎の経営する橋爪スイミング・スクールの門を叩き、オフには水泳でトレーニング。子どもたちと一緒になって、ゆっくりとクロールなどで泳ぎながら、コンディションを整えていった。

 阪神1年目の83年は自身6度目の2ケタ勝利となる12勝。大洋と初めて対戦した試合で勝利投手となり、プロ野球で初めて12球団から白星を挙げた投手に。それでも謙虚に一言、

「チームが勝ってくれればいい」

 古巣に牙をむいた、というのとは趣が異なる。すでにプロ15年目のベテランだったが、こだわったのは古巣への意趣返しではなく、自身の速球。86年限りで現役を引退したが、最後まで力強い速球にこだわった。オーソドックスなフォームから淡々と投げ続けたため、派手な印象はない。特定チームの印象も定着していない。大洋のイメージか、あるいは阪神のイメージか。それともロッテか、日本ハムか。どのチームで投げていた姿が印象に残っているかも、ファンそれぞれだろう。モットーもシンプルに一言、「全力を尽くす」。流浪の右腕には、古武士の風格すら漂っていた。

写真=BBM
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