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プロ野球1980年代の名選手

杉浦享 引退を払しょくした日本シリーズ初の代打サヨナラ満塁本塁打/プロ野球1980年代の名選手

 

1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。

85年がキャリアハイ



 穏やかな顔つきと、ぽっちゃりした体形で“ブーちゃん”と呼ばれて親しまれ、ギターや鉄道模型、漫画など、インドア系の趣味も多彩。たが、そんなキャラクターとは裏腹に、左打席に立てば勝負師としての凄味すら感じさせたのがヤクルトの杉浦享だ。ちなみに、これら多彩な趣味については、

「飲みにいったりする誘いを断り、自宅で食事、練習をして体調を整えることを心がけていたため」

 なのだとか。ギターの腕前も相当なものだったが、22年もの長きにわたる現役生活をヤクルトひと筋でまっとうした。

 打球スピードは1980年代のプロ野球界でも随一。若手時代、王貞治(巨人)に一本足打法を指導したことでも知られる荒川博監督から教わった前傾姿勢が基本で、最初はダウンスイングだったが、のちにレベルスイングへ移行して、外角球を強く打つため軸足に重心を残した形でスイングに入ることを意識した。

 速いストレートにだけは振り遅れないように気をつけて、狙うゾーンを外へ外へと広げていき、内角は振り切れる範囲の中で甘い球を待つ。懐を深く使うべく、どっしりと構えて、どんな球も自分に近いポイントで腰を入れて、バットに乗せて運ぶ感覚で振り抜いたことが、鋭い打球を生んだ。

 71年にヤクルト入団。ドラフト10位という下位の指名で、投手としての入団だった。左腕投手として活躍する可能性もあったわけだが、すぐ野手に転向。ただ、ポジションは一塁か外野に限定された。若手時代と大ベテランになってからは一塁を守ったが、打撃を生かすべく、より出場機会の得やすい外野手に専念することになる。

 その78年、主に六番打者としてレギュラーに定着。初の規定打席到達で17本塁打を放って、初優勝、日本一に貢献した。翌79年には22本塁打。迎えた80年はリーグ6位の打率.311をマークして、初の打率3割もクリアしている。

 80年代は、ほぼ一貫してヤクルト打線の中軸を担った。ベテランとなってからの姿からは意外だが、80年代の前半は俊足も武器で、83年まで5年連続2ケタ盗塁。キャリア唯一の全試合出場となった82年からは2年連続でリーグ最多の三塁打も放っている。

「自分の打法をつかんだ」

 と語るのが85年だ。開幕から四番打者を務めたが、7月10日の阪神戦(甲子園)での死球禍もあって8月に失速。それでも最終的には34本塁打、81打点、リーグ7位の打率.314で、打撃3部門すべてでキャリアハイの結果を残し、特に本塁打では胸を張る。

「死球がなければバース(阪神。54本塁打で本塁打王)に食らいつけたと思う」

89年からは代打が増えたが……


 プロ初打席も、初本塁打も代打だった。代打では配球を読み、1本で決めてやろうという意識で打席に立ったという。87年からも2年連続で20本塁打を超え、89年には4月12日の中日戦(神宮)で西本聖にバットを真っ二つに折られながらも右翼スタンドへ運ぶ奇跡の本塁打もあったが、その後は代打での起用が増えていく。ただ、それは次なる奇跡の本塁打へとつながる伏線だった。

 18試合の出場に終わった92年には、

「戦力外になると思って周囲に挨拶していた」

 ところ、新聞でも引退を報じられる。ヤクルトは14年ぶりのリーグ優勝。迎えた西武との日本シリーズ第1戦(神宮)は延長戦に突入する。出番は延長12回に回ってきた。

 一死満塁。すでに40歳となっていた。たちまち2ストライクと追い込まれたが、続く3球目、インハイのストレートをとらえると、打球は右翼席へと飛び込んでいく。日本シリーズ初の代打サヨナラ満塁本塁打だ。

「打った球なんて覚えてないけど手応え十分。震えちゃったよ」

 あと一歩のところでヤクルトが日本一を逃すと、野村克也監督に申し入れて現役を続行。翌93年、ヤクルト15年ぶり、自身2度目の日本一を見届けてバットを置いた。

写真=BBM
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