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プロ野球1980年代の名選手

加藤英司 勝負強き“西本幸雄チルドレン”/プロ野球1980年代の名選手

 

1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。

近鉄で通算300本塁打


阪急・加藤英司


 山田久志福本豊らと同期で阪急へ入団し、ともに黄金時代の中心選手として活躍した加藤英司にとって、阪急の終焉とともに現役生活をまっとうした山田、福本とは対照的に、1980年代は激動の時代だった。

 体をねじ切るようなフルスイングで、70年代は首位打者2度、打点王3度の好打者だったが、78年には引退を考えるほど椎間板ヘルニアの激痛に苦しみ、オフに入院。運気を変えようと登録名を「加藤秀司」から変更して迎えた79年はキャンプにも間に合わず、治療を続けながらのプレーだったが、それでも三冠王に迫る活躍を見せた。最終的には本塁打で近鉄のマニエルに及ばず打撃2冠にとどまったが、

「打点と首位打者は、まず決定で、10月に入ってホームランも35本でマニエルと並んだんやけど、消化試合になってからの近鉄との直接対決で、今井雄太郎がまともに勝負して2本、打たれた。今でも忘れん。ええから歩かせろって」

 のちに笑って振り返る。翌80年は初の全試合出場。その翌81年まで3年連続で打率3割を超える。だが、82年、勝負強さは健在だったが、打率.235と安定感を欠くと、水谷実雄とのトレードで広島へ移籍となった。

 新天地で全試合に出場して打点王に輝いた水谷とも対照的に、広島では体調面で苦しめられることになる。序盤から急性肝炎となり、点滴を打ちながらの出場。それでも5月に6本塁打を放ったが、6月に再び体調を崩して登録抹消に。およそ2カ月で戦列に復帰したものの、今度は膀胱炎で離脱。最終的には75試合の出場に終わって、1年で2対2のトレードにより近鉄へ移籍となった。

 慣れ親しんだパ・リーグへの復帰が“特効薬”となったのか、奇しくも古巣の阪急が最後のリーグ優勝を決めた84年、近鉄で完全復活を遂げる。4年ぶり2度目の全試合出場。6月9日の南海戦(藤井寺)では通算300本塁打をサヨナラ満塁本塁打で飾った。

 翌85年には打撃3部門で前年の数字を上回り、通算2000安打に残り36本と迫ったが、オフに金銭トレードで巨人へ。阪急時代に着けていた背番号10には4年ぶりに“復帰”したが、慣れない代打での起用に苦しみ、成績は急落した。86年5月10日の広島戦(広島市民)でプロ野球3人目となる全球団からの本塁打を達成したものの、その1本を含む3本塁打に終わり、1年で自由契約となる。通算2000安打まで、残り13本だった。

南海で通算2000安打


 そこへ手を差しのべたのが阪急時代の恩師でもある西本幸雄だった。ファーム暮らしが続いていたプロ1年目、その潜在能力に注目して「しっかり育ててくれ」と二軍監督の片岡博国に指示したのが西本。不振に苦しみ、三番を外してくれと訴えても、譲らず使い続けたのも西本だった。苦手だった内角球を克服すべく、徹底的に指導したのも西本。阪急でも近鉄でも、多くの選手が西本との邂逅を振り返るが、もちろん、その1人だ。

「僕のバッティング、精神面も全部、西本さんに教えてもらったようなものだからね」

 そんな西本の紹介により、南海で再びパ・リーグの土を踏む。通算1987安打で迎えた1987年。不動のレギュラーではなかったものの、110試合に出場した。2000安打に残り1本となった5月7日の阪急戦(大阪)では、「五番・指名打者」として先発出場。マウンドには山田がいた。立ち上がりから苦しんでいた山田に対して、6回裏の先頭打者としてトドメの一発。かつての盟友から本塁打で決めた通算2000安打だった。

 そのオフ、現役引退。阪急時代を振り返り、

「フク(福本)さんが(塁に)出て盗塁、大熊(大熊忠義)さんが送って、一死三塁が多かった。これが楽。浅いフライでもフクさんならセーフだから。打点を簡単に取れて、打数が減るから打率を上げやすい」

 と語っているが、通算105犠飛は歴代2位。現役19年で、近鉄時代を含む6度の“犠牲フライ王”にもなっている。

写真=BBM

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週刊ベースボール編集部

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