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平成助っ人賛歌

陽気なパフォーマンスの人気者“踊るホームラン王”ウインタース/平成助っ人賛歌【プロ野球死亡遊戯】

 

助っ人の立場と求められる役割を理解して実践


入団から4年連続30本塁打と長打力を発揮したウインタース


 ネットもスマホもない時代、夜中にプロ野球の試合結果が知りたいときはどうしていたのだろうか?

 そんな疑問を抱きながら、28年前の『週刊ベースボール』を見ていたら、ページの片隅にこんな広告を見つけた。ニッポン放送ショウアップナイターステーションのプロ野球・ダイヤルQ2速報である。「プロ野球の試合経過・結果が今すぐ聞ける! 全ての試合の試合経過・結果を、選手のコメントなども交えて、24時間お届けします」の紹介文と電話番号が書かれている。

 で、よく見ると広告下部に「このサービスは通話料の他に、3分あたり約210円がかかります」という一文もさりげなく記載。通話代別で3分210円か……。毎試合利用していたら月額6000円超えで結構高い。もちろん子どもには手が出せず、明細を見た母ちゃんから激怒されること必至。あのころ、自分の好きな時間に情報を得る行為はそれだけハードルが高かった。

 そんな懐かしい広告が掲載されている1991年8月5日号の週刊ベースボールで、元メジャー・リーガーの村上雅則氏に「踊るホームラン王」と紹介されているのが日本ハムファイターズのマット・ウインタースである。78試合を終えた時点で27本塁打とホームランダービートップ。ちなみにあの大ヒットドラマ『踊る大捜査線』の放送開始より以前、「踊る○○」と言えばウインタースだった。

 元近鉄のクリス・アーノルドが代理人を務め、90年にロイヤルズ在籍時の大リーグ最低保証年俸6万5000ドルから、大幅アップの年俸35万ドルで日本ハムへ入団する。身長191センチ、体重98キロの巨漢スラッガーに付いたあだ名は“グリズリー”。その陽気な性格とパフォーマンスで瞬く間に人気者となる。自由奔放な行動と言動は、マッシー村上がホストを務めるインタビューでも健在だ。

「日本の選手は、日本ハムの工場で働いている人と一緒で、仕事一辺倒なんだよね。(野球は)もちろん仕事は仕事だけど、“ゲーム”なんだから。楽しむことで緊張感もほぐれるだろ。あの踊りにしても何にしても、自分がそうすることによってチームも、そして自分自身もリラックスできたら、それでいいんだ」

 そして、こう付け加えるのだ。「ただ、日本人がやったら怒られると思うから、外国人であることを利用して、やってるだけだよ」と。クレバーな男である。助っ人選手の立場と求められる役割を理解して、それを実践してみせる。当時、元阪神セシル・フィルダーがメジャー復帰すると、いきなり51本塁打を放ちタイトルを獲得したことから、にわかに日本球界への注目度も高まっていた。

 30歳で日本へやって来たウインタースも「メジャーのフロントスタッフにしても、いい目で自分たちのことを見てくれてると思う」と口にしたり、マッシー村上に「アメリカへ帰ると、よく日本の野球はどの程度のレベルか、と聞かれるけど、村上さんはどう思う?」なんて逆に質問をしている(村上氏は「3Aよりは上だと思う」と回答)。いわば、昭和の時代は他人事だった海の向こうの大リーグが、平成に入り徐々にリアルな世界としてとらえられるようになり始めていたわけだ。

数々のパフォーマンスが話題に


ダンスパフォーマンスなどで人気を博した


 当時のパ・リーグは西武ライオンズの黄金時代真っ只中。現在は強豪チームの日本ハムも、万年Bクラスの厳しい時期だったが、ウインタースはひとり気を吐き、1年目から35本塁打を記録。2年目の91年はデストラーデ秋山幸二に次ぐ、リーグ3位の33本塁打。3年目の92年もデストラーデ、清原和博に次ぐリーグ3位の35本塁打と、西武の誇るAKD砲に対抗できる爆発力と安定感を持った長距離砲だった。

 数々のファンサービスはスポーツニュースでもたびたび取り上げられ、イニング間に女装や他選手のモノマネを披露したり、手品で記者を笑わせたり、今では当たり前になった雨天中止時の本塁ヘッドスライディングパフォーマンスもウインタースが率先して行ったりと、まさに“踊るホームラン王”として周囲から愛された。

 そんな日本ハムがパ・リーグの主役に躍り出たのが、平成5年の1993年シーズンのことだ。“親分”こと大沢啓二監督率いるチームの中心は、「四番・DH」ウインタースと「五番・一塁」リック・シュー。週刊ベースボールの「93’ペナントレースZOOM UP」ページでも“並び立つ両雄”の見出しで3日連続のアベックアーチを叩き込んだ助っ人コンビを称賛している。「左のボクと右のリックとのコンビネーションがいいんじゃないかな」とウインタースが二人そろっての活躍を分析すれば、シューも「マットはボクの“先生”です」と息もぴったり。首位西武に3ゲーム差の2位で前半戦を折り返し、8月24日には一時首位に立つが、最後は経験の差も出てわずか1ゲーム差で優勝を逃した。

 それでもウインタースは130試合フル出場、35本塁打にリーグ最多の90四球と主砲の重責を担い、「ファイティーガールズ」という美女をそろえたダンスチームを率いて東京ドームで陽気に踊ってみせたのである。

 と言っても、さすがに悪ノリが過ぎたか賛否両論で、翌94年もフル出場を果たすが、初めて30発を割る22本塁打に終わり、この年限りで解雇されてしまう。本人はNPB11球団に売り込むも、間が悪くメジャー・リーグが長期ストライキ中で、続々と大物大リーガーが来日。結局、ウインタースは94年限りでの現役引退を決意する。

 それにしても、あらためてその成績を振り返ると驚かされる。パフォーマンスの印象が強烈だが、入団から4年連続30本を含む、日本ハム在籍5年間で通算160本塁打の超優良スラッガー。引退時まだ34歳。現代の余裕のある外国人枠ならば、もっと息の長い助っ人選手になっていただろう。

引退後はスカウトに


 93年時点で、故・パンチョ伊東氏の直撃インタビューに「現役を辞めた後は、どこか大リーグ・コーチでもやりたいと思ってる。フロリダ・マーリンズあたりでオーレ(デストラーデ)なんかと一緒にやれたらいいなあ」と答えていたが、95年にドジャースで野茂英雄が活躍すると、本当にマーリンズのスカウト役として再び来日(なぜかちょんまげのカツラをかぶってみせるマスコミサービス付き)。いきなりジャイアンツ球場に姿を現し、桑田真澄に名刺を渡して声を掛け、巨人と一騒動起こしている。

 現役時代に「ボクが日本チームのオーナーだったら、バリバリのメジャー・リーガーより、3Aでメジャーに上がるチャンスのなかった選手か、メジャーとマイナーを行ったり来たりの選手を連れてくるね。そういう選手の方が、こっちで稼ごうと一生懸命努力するだろ」なんて笑っていた男は、近年は北海道日本ハムファイターズの駐米スカウトを務め、約30年前の自分と同じく、這い上がるチャンスを求めるハングリーな外国人選手を日本へ送り込んでいる。

文=プロ野球死亡遊戯(中溝康隆) 写真=BBM
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