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プロ野球1980年代の名選手

山本和行 メジャー移籍の可能性もあった100勝100セーブ左腕/プロ野球1980年代の名選手

 

1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。

先発でも救援でも


阪神・山本和行


 野球は数字のスポーツとも言われる。プロ野球において、一定のラインさえ超えてしまえば同列で比べられる打率や防御率とは違って、通算の数字は積み上げていくもの。単純な比較はできないが、高校からプロ入りした選手に比べて、大学を経た選手は4年のハンディキャップがあり、どうしても不利だ。

 そんな大卒の選手でありながら、現役17年で通算700試合に登板して、100勝100セーブをクリアしたのが阪神ひと筋の山本和行。先発でも救援でも力を発揮し、どんなピンチでもポーカーフェースを崩さず、キレのいいストレートと鋭いフォークで強気のピッチングを貫いた鉄腕サウスポーだ。

 猛虎フィーバーに沸いた1985年に、右腕の中西清起とともにクローザーとして26年ぶりのリーグ優勝に貢献した姿も印象に残るが、その全盛期は長い。亜大では三振の山を築く投球で優勝投手にもなっているが、勝ち点を狙うためには連投に耐えられるピッチングが求められたため、“省エネ”タイプの投球スタイルに転換。これが、のちの長い活躍の基盤となったのかもしれない。ちなみに、フォークも大学でマスターしたものだったが、最初から球を指に挟んでいると牽制が投げられないため、手品師の指づかいをイメージして、バックスイングまでに持ち替えるように練習を重ねた。

 ドラフト1位で72年に阪神へ。当初は先発として起用されていたが、76年には救援のマウンドを中心に自己最多の67試合に登板して6勝18セーブ。翌77年にはリーグ最多の58試合で9セーブながらセーブ王となっているが、続く78年には再び先発へ回った。その翌79年には、6月2日の巨人戦(後楽園)でプロ初登板となった“怪物”江川卓と投げ合って、江川から3三振を奪うなどの力投で完投勝利を挙げている。

 31歳を迎える80年は先発としてのキャリアハイといえるシーズンだ。自己最多となる13完投、15勝。先発が中心だったシーズンの中では、防御率3.26は自己最高となる。翌81年も12勝で、2年連続2ケタ勝利。だが、その翌82年、序盤こそ先発で完封勝利も挙げているが、5月上旬には再びクローザーとしての役割が求められる。

 この82年が、救援が中心だったシーズンのキャリアハイだ。登板した63試合のうち、先発は序盤の6試合のみ。その後は救援のマウンドに専念して、最終的には15勝26セーブ、40セーブポイントで初の投手タイトルとなる最優秀救援投手に輝き、規定投球回にも到達して、防御率2.41はリーグ3位。84年にもクローザーとして10勝24セーブで2度目の最優秀救援投手となっている。

パイオニアになれずに


 先発では7回くらいまでトータルで失点を少なくするように心がけていたが、救援では遊び球を使わず、全球で勝負したことで、奪三振が増え、与四球が減った。失投が許されず、余裕のない投球を余儀なくされるが、

「ちゃんと決まれば打たれないと信じて」

 投げたという。ただ、85年は9月にアキレス腱を断裂して離脱。優勝決定試合では松葉杖でベンチ入りして胴上げを見守っている。

 歴史にifはないとはいえ、自身にとっても、阪神にとっても、運命の分岐点となったのが、その前年、マウイでのキャンプだった。もともと大リーグに強い興味があり、そのトレーニング方法やシステムを取り入れていたが、ドジャースのコーチにピッチングを見せて、入団の承諾だけでなく、先発6番手の確約も取り付けていたのだ。だが、当時のプロ野球界には対応できる制度がなく、断念。このとき、もしもメジャー・リーガーのパイオニアとなっていたら、85年の猛虎フィーバーはなかったかもしれない。どちらが幸せだったのかは、歴史の闇の中だ。

 ただ、アキレス腱の重傷から不屈の闘志でカムバックした左腕は、通算700試合登板という数字を残して引退した88年に、こう語っている。

「タイガースひと筋、17年できたことを誇りにして生きていく」

写真=BBM

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週刊ベースボール編集部

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