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プロ野球1980年代の名選手

大野豊【前編】江夏豊からの指導で急成長し後継者に/プロ野球1980年代の名選手

 

1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。

どん底からのスタート



 1980年に2年連続で日本一に輝いた広島だったが、オフに絶対的クローザーの江夏豊日本ハムへ。翌81年、その後継者となったのが、同じ左腕の大野豊。22年もの長きにわたって投げ続けた鉄腕だ。83年までクローザーをメーンに投げまくるが、

「この3年間が一番キツかったし、つらかったですね。江夏さんがいた3年間は、後ろに絶対的な存在がいるので、とにかくそこにつなぐまで頑張ればいい、という思いしかなかった。でも、今度は自分が後ろを任されて。その期待に応えられるだけの内容、成績を残せればよかったんですが……。やっぱり江夏さんと比較される苦しさがありました。当然、格が違うんですけど、周りは、そうは思ってくれない。コールされてマウンドに行くまでに『江夏だったら抑えられる、お前だったら打たれる』といったヤジを、いつも聞いていた。もう二度と抑えはやりたくないと思いましたね。そういう立場に置かれた自分の弱さも感じました。そういうことにも強くなっていかなきゃいけない、と。それからは『今に見ていろ』と思うようになった。そんなヤジを言われない投手になってやる、ってね」

 この経験は先発へ転向した84年になって、生きてくることになる。

「いきなり9連勝ですよ(笑)。先発って、こんな簡単で楽に勝てるのか、と思いました」

 もともと、どん底からのスタートだった。ドラフト外で77年に広島へ。だが、1年目のデビュー登板で炎上して、防御率135.00という驚異的な数字を残してしまう。

「まあ、これで自分は終わったと(笑)。周りも、そう思ったでしょう。ただ、母親に電話したときに『1回の失敗であきらめるな。もう一度、頑張りなさい』と言われたんです」

 するとオフ、江夏が南海から移籍してくる。運命的な出会いだった。

「社会人時代、僕は(江夏の阪神時代と同じ)背番号28を着けていたくらい、江夏さんのファンだったんです。その江夏さんが広島へ移籍されてきて、古葉(古葉竹識)監督が江夏さんに、僕のことを見てくれと言ってくださったらしいんですよ。それでキャンプから付きっきりで、いろいろ指導していただきました」

 江夏の指導は基本的なところから始まった。

勝ち星よりも防御率


「とにかく基本を大事に、キャッチボールをおろそかにしちゃダメ、というところから。(左腕の投球フォームは)基本的に重心が下がって左肩も下がり、右肩が上がるんですが、僕も独特なフォームで、それが極端で壁が作れていなかったんです。だから、まず右手の高い部分を下げて、肩の上から壁を作って、目標に対して投げていこう、と。フォームを変えることになったんです」

 翌78年から、その江夏へとつなぐセットアッパーとして実績を積んでいった。81年からは江夏の後釜としてクローザーを担うも、広島は優勝から遠ざかっていく。迎えた84年は先発に回って優勝、日本一に貢献したが、開幕9連勝の後は急失速した。

「落とし穴じゃないけど、そこ(9連勝)から、まったく勝てなくなった。先発に変わって、それまで自分の中でモヤモヤしていたものが抜けて、結果も出た。15勝は固いな、という思いでいたんですけど、結局10勝。自分の甘さを感じさせられた年でした」

 ただ、防御率2.94はリーグ2位。

「自分の場合、スタートが135点という、とんでもないものでしたから、防御率には引退まで、こだわりがありました。とにかく勝ち星よりも防御率。だから、とんでもなく多い勝ち星を挙げたことなんてないんです」

 2年連続10勝の翌85年こそ防御率は悪化したが、86年からは安定感を維持していく。その86年は規定投球回未満ながら防御率2.74。翌87年にはリーグ5位の防御率2.93に加え、自己最多の13勝も挙げた。迎えた88年は、プロ12年目、33歳を迎えるシーズン。ベテランの域へと入りつつあったが、さらなる飛躍を遂げていく。

写真=BBM

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