1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。 88年に初の最優秀防御率
江夏豊の“後継者”としてクローザーとなり、1984年に先発へ転向してからも結果を残した大野豊。防御率135.00という、どん底から幕が開けた現役生活だったが、勝ち星よりも防御率にこだわり続け、88年、ついに最優秀防御率のタイトルを獲得する。防御率1.70。すさまじい安定感だった。
「(防御率が)135点というスタートを切った人間が、33歳で、そういうタイトルを獲れたというのは、自分をほめてやりたい部分はありますね」
自己最多に並ぶ13勝を挙げて、沢村賞にも選ばれたが、
「歴代で最低の勝ち星ですよ(笑)。あのとき僕は、絶対もらえないと思っていたんですから。13勝じゃ恥ずかしいじゃないですか」
と笑って振り返る。翌89年も8勝ながら、リーグ3位の防御率1.92。
「30歳を過ぎて、転換期を迎え、そこでうまく対応できなくて、やめていく先輩たちを見てきました。だから、そういうふうに自分もやめるのが近いのかな、と思っていた」
と言うが、80年代の終焉は、まだまだ折り返し地点を過ぎただけ。その後も役割を変えながら、長く現役生活を続けていくことになる。90年代に入ると、再びクローザーに。
「9回まで完投、というのが当たり前だったのが、1イニング1イニングが、長く感じるようになったんです。どこか体が悪いとか、そういうんじゃない。気が乗らないというか。これは今までと、ちょっと違う、なにかおかしいな、と。それで、
山本浩二監督に『これでは先発で投げられない。迷惑をかけるし、リリーフにしてもらえませんか』と」
91年は、
津田恒実とのクローザー二枚看板という構想だったが、津田が病気のため4月に離脱。最終的には6勝26セーブで最優秀救援投手に輝いてリーグ優勝に貢献するが、
「自分でも信じられないくらいに、何か目に見えない力で後押しされて投げることができたんです。14試合連続セーブなんてこともありましたけど、これは津田の後押しだったと思います。僕もそうだし、チーム全体も『津田のために』というのがありましたからね」
優勝決定試合となった10月13日の阪神戦ダブルヘッダー第2試合(広島市民)では胴上げ投手に。優勝の経験は5度目だったが、胴上げ投手となったのは初めてだった。
97年に42歳で2度目の最優秀防御率
その後も広島ひと筋で投げ続けることになるが、最大の危機(?)は93年オフに訪れる。メジャーのエンゼルスから獲得のオファーが届いたのだ。だが、即座に拒否。
「まったく行く気はなかったです。広島にテストという形で入団させてもらって、そこを出て、日本でもそうですが、メジャーも含めて他のチームでやる気持ちはなかった。愛着もあるし、育ててもらったという思いもありましたから。逆に、広島に残ったから、ここまでできたと思っています」
40歳を迎える95年に再び先発に回ると、ノーワインドアップにフォームを改造。これが年齢的な衰えをカバーしていく。42歳となった97年には防御率2.85で2度目の最優秀防御率に輝き、歴代でも最年長の最優秀防御率となったが、
「1.85なら自信を持って言えるんだけど、たぶん2.85って歴代で一番、悪いんじゃない? 自分の力で獲ったという感覚はないです。チームの人に協力してもらい、獲らせてもらったタイトル。何人かの投手で争っていたんですよ。そういう投手を、打線が打ってくれた。チームからのプレゼントです」
やはり史上最年長の42歳7カ月での開幕投手を務めた98年限りで現役引退。引退試合は9月27日の横浜戦(広島市民)で、
「我が選んだ道に悔いなし」
と語った。
「カープというチームに長くいることができて、本当に悔いなくユニフォームを脱げるという現役生活を送ることができたという思いを、あの言葉に込めたつもりです」
写真=BBM