1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。 エースの鈴木には有田
近鉄では1980年代に入っても、ともに司令塔となるだけの実力を備えた有田修三、梨田昌崇(梨田昌孝)の“アリナシ・コンビ”による切磋琢磨が続いていた。80年代には梨田の試合出場が有田を上回るようになっていったが、一貫していた不文律は、「エースの
鈴木啓示には有田」というものだった。有田は、
「僕のことを我が強いタイプと言っていたようですが……」
と振り返るが、もともとは
西本幸雄監督が有田を「抑えれば捕手のおかげ、打たれれば投手のせい」と考える性格と分析して、やはり気の強い鈴木と組ませたものだった。
いくら有田が強気な性格とはいえ、相手は大先輩であり、歴戦の大エースだ。有田も、
「ホンマ、めちゃくちゃプライドの高い人でしたわ」
と振り返る。当初はサインに首を振られてばかりだったが、速球派から技巧派への転換期にスライダーを多投させて勝ってからは、首を振られなくなったという。梨田が語る。
「あるときから、(鈴木の登板では)指名がかからなくなった。別に指名料を取っているわけでもないし(笑)、なんでかな、と思っていたんですが、ある日、鈴木さんから食事に誘ってもらって、『スマンなぁ、お前のミットでは燃えんのや。有田のミット見たら腹が立ってきてな、燃えるんや』と」」
鈴木も笑って振り返る。
「ナシはね、俺が首を振ったらサイン変えてくれるし、それで打たれても、かばってくれんねん。有田は首を振っても、何回も同じのを出してくるし、(有田がサインを)仕方なく変えて、それで打たれたら、監督に『これ投げぇ、言うとんのに、あれ投げるんですよ』と、ホンマのこと言いよんねん(笑)。だから、クソッ、ってね」
鈴木は85年のシーズン途中に突然の引退。
「近鉄に骨を埋めたい」
と思っていた有田だったが、オフにトレード要員となる。近鉄は人気球団の巨人との親密な関係を構築することを模索して、右腕でスターの
定岡正二と有田を含む封数のトレードを画策。だが、定岡がトレードを拒否して現役を引退してしまったことで、有田と
淡口憲治ら2人による1対2のトレードで決着する。
70年代から続いてきた“アリナシ・コンビ”も、ついに終焉となった。
それぞれのフィナーレ
85年は118試合に出場して規定打席にも到達した梨田だったが、有田が巨人へ移籍した翌86年からは出場機会を減らしていく。結果的には、移籍した有田のほうが長い現役生活を送ることになった。
有田に巨人で期待されたのは控え捕手としてベテランの味を発揮すること。だが、それで終わらないのが有田だ。移籍1年目の86年、9月8日の大洋戦(後楽園)では、同点で迎えた8回裏二死一、三塁の場面で、まさかのセーフティースクイズ。一塁へヘッドスランディングを敢行して決勝点をもぎ取り、
王貞治監督を「あれは巨人で育った選手にはできない」と喜ばせた。88年には12本塁打も放っている。90年にダイエーへ移籍し、翌91年限りで現役を引退した。
一方、梨田は近鉄ひと筋を貫いた。
「87年に、やめようと思ったんです。肩を手術して投げられないし。そうしたら、仰木(彬)さんに『来年から監督することになったんや。頼むから残ってくれ、選手とコーチのパイプ役をやってくれ』って」
ラストシーンは象徴的だった。88年、連勝で優勝が決まる
ロッテとのダブルヘッダー(川崎)、“10.19”。第1試合の9回表に代打で登場、同点の適時打を放って希望をつなぐ。
「仰木さんが代打を告げるまでの時間が長かった。あれが僕のプロ最後の打席です。そして最後の守備が第2試合、優勝(の可能性)がなくなった後での守備。虚しい、寂しい気分でしたね」
ただ、この近鉄の“悲劇”は、翌89年のリーグ優勝への序章でもあった。
写真=BBM