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プロ野球1980年代の名選手

郭泰源 衝撃の快速球を投じた“オリエンタル・エクスプレス”/プロ野球1980年代の名選手

 

1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。

いつか日本球界で……


西武・郭泰源


 1980年代に始まった西武黄金時代を司令塔として支えた伊東勤は振り返る。

「とにかく速い。最初に(投球を)受けたとき、こんな投手がいるのか、と衝撃を受けた」

 こんな投手、とは、“オリエンタル・エクスプレス”郭泰源だ。チームメートで、同じく速球派右腕の渡辺久信も語っている。

「僕が一番、速い球を投げる。そう思っていたのは、郭泰源の球を見るまで」

 台湾出身。83年のアジア選手権で、その剛速球を武器に決勝戦で日本に完封勝利。翌84年のロサンゼルス五輪では最速158キロをマークするなど、銅メダル獲得に貢献している。当然のように日米の球団で大争奪戦となったが、メジャーの好条件を蹴って、その秋のキャンプから西武に合流した。

「高校2年のとき、スカウトの西三雄さんが台湾まで見にきてくれたんですよ。だから日本を選ぶというのは決めていて、ずっと見ていてくれた西武のほかになかったということです。いつか日本球界でやる、というのを、ずっと励みにしていましたし」

 実際は日本球界のレベルも分からず、どれくらい自分ができるのか、想像もできなかったというが、その決断は吉と出る。4月は無傷の2勝、防御率0.32で月間MVP。6月4日の日本ハム戦(平和台)ではノーヒットノーランも達成した。お立ち台では、

「最高の幸せ!」

 と日本語で絶叫。だが、その後は肩痛もあって失速、最終的には9勝にとどまり、阪神との日本シリーズにも出場できなかった。

「あの年は10年分くらいの経験をした。日本語も分からないし、毎日が大変。練習も厳しいし、広岡さん(広岡達朗監督)の雰囲気も厳しい(笑)。プレッシャーやストレスを、ずっと感じていた。おかげでストレス解消のためにパチンコを覚えちゃったよ(笑)」

 来日2年目、森祇晶監督が就任した86年には開幕からクローザーを任されたが、

「毎日、投げるか投げないか分からないのは精神的にしんどい。8月に先発へ戻ったときはホッとした」

 続く87年からも先発で2年連続13勝。強力打線の援護もあったとはいえ、4敗、3敗と高い勝率を誇り、開幕10連勝もあった88年の勝率.813はリーグトップだ。だが、右ヒジへの不安のため、奪三振にこだわらず、打たせて取る投球を続けていたが、8月11日には登録抹消に。“オリエンタル・エクスプレス”は、“ガラスの右腕”とも呼ばれ始める。

入団から11年連続100イニング以上


 最速156キロのストレートに、真横にスライドする高速スライダーも武器だったが、

「困ったときはシュートだった。それがあったからスライダーが生きたと思うんです」

 スライダーと同様、ストレートと同じ軌道で来て、打者の手元で滑るように鋭く曲がる。これらを支えていたのが抜群の制球力だ。ふたたび伊東が振り返る。

「調子がいいときなら、ほとんどミットを動かさなくていい。高めに浮くこともないし、受けていて、これほど楽で、楽しい投手はいなかったですね」

 故障も多かったが、入団から11年連続で100イニング以上に投げ続けた。自己最多の15勝を挙げた91年にはMVP。94年には13勝5敗で、2度目のリーグトップとなる勝率.722をマークしている。翌95年には最優秀防御率に輝いたロッテ伊良部秀輝と0.01差の防御率2.54でリーグ2位。

「あと1イニング投げたら抜けたかもしれない。投げさせてもらおうかどうか悩みましたが、結局、手首の状態がよくないんで、あきらめてしまったんですよ」

 この手首の故障が尾を引き、続く96年からは2年連続で勝ち星なく、97年は10月5日のダイエー戦(西武)が初登板で、引退試合。かつてのチームメートでもある秋山幸二を中飛に打ち取り、有終の美を飾った。通算117勝は、2リーグ制となってからの外国人投手としては歴代最多だ。

写真=BBM
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