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プロ野球1980年代の名選手

荘勝雄 七色の変化球を操った“二郭一荘”の一角/プロ野球1980年代の名選手

 

1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。

郭泰源とのライバルストーリー



 1980年代の後半、プロ野球では、しばしば「二郭一荘」と言われていた。何やら漢方由来の健康法のようだが、もちろん違う。当時のプロ野球を知るファンなら、「二郭」とは中日郭源治、西武の郭泰源を指すことを知っているだろう。「一荘」は、ロッテの荘勝雄だ。速球派だった「二郭」とは対照的に、「一荘」は技巧派。優勝とは無縁だったロッテに在籍したこともあって、「二郭」に比べれば目立たないが、負けず劣らず、安定した結果を残した同じ台湾出身の右腕だった。

 台湾時代から国際舞台で活躍。83年にはIBAFインターコンチネンタルカップで、翌84年にはロサンゼルス五輪で、ともに銅メダル獲得に貢献。前者では無傷の5勝で最優秀投手にも選ばれている。

 85年にロッテ入団。同じ時期に西武へ入団した郭泰源とは“同期”となり、同じリーグということもあって、ライバル心を隠さなかった。開幕から12試合、57イニング連続で本塁打ゼロに抑えるなど好投を続けたが、“オリエンタル・エクスプレス”と呼ばれた速球派で、1年目からノーヒットノーランを達成し、しかも黄金時代の西武で先発の一角を担った郭泰源に比べて、弱いロッテの技巧派は、はるかに地味な印象だったことも確かだ。

 だが、右肩痛で出場を辞退した郭泰源に代わって球宴に出場すると、直前での代替出場ながら、セ・リーグの名だたる強打者たちを次々に打ち取っていく。ロッテの本拠地でもある川崎球場で開催された第2戦の7回表からマウンドに上がり、巨人の原辰徳クロマティ中畑清を三者凡退、8回表も三者凡退に抑えて、その名を全国に知らしめた。ペナントレースでも先発、救援を問わず34試合に登板して11勝4セーブ。その剛速球で騒がれながらも9勝にとどまった郭泰源を上回る成績を残して新人王も争ったが、阪急の熊野輝光、チームメートの横田真之に続く3位の得票数に終わっている。

 翌86年には、6月上旬までは先発ローテーションの一角にいたが、先発のコマがそろってくると、クローザーに転向。開幕前からの稲尾和久監督の構想だった。リリーフに専念したことで奪三振率がアップ。7月30日の日本ハム戦(川崎)から8月24日の近鉄戦(ナゴヤ)まででパ・リーグ新記録となる10試合連続セーブポイントもマークするなど、最終的には11勝5敗18セーブの好成績を残した。奇しくも、その86年は郭泰源も主にリリーフとして起用されていたが、5勝7敗16セーブに終わっている。数字では上回ったが、優勝したのは西武だった。

直接対決を完封で制するも……


 87年から自己最多となる2年連続13勝。郭泰源も2年連続13勝だったが、勝率では郭泰源に軍配。ともに来日5年目となる89年、ようやく直接対決が実現する。6月7日、敵地の西武球場。ともに5回までは無失点で切り抜けたが、6回表に愛甲猛がソロ本塁打を放って援護、この1点を守り抜いて、完封でライバル対決を制した。シーズンでは郭泰源の10勝に対して、11勝。だが、推定年俸は郭の6000万円に対して、5000万円。巡り合わせの皮肉は続いた。

 金田正一監督に勧められて、90年5月に帰化を申請。翌91年11月に日本国籍を取得した。運命の皮肉は深刻の度合いを深めていく。起用法が安定しなかったこともあって90年から2年連続5勝に終わっていたが、帰化してから初めてのシーズンとなった92年からは、勝利の女神からも見放された。95年8月11日の西武戦(千葉マリン)で8回表から登板して、初芝清のサヨナラ打で4年ぶりの勝利投手となったのが最後の勝ち星となり、オフに現役を引退した。

 七色の変化球を操り、下半身の粘りと腰の鋭い回転で投球のキレを生んだが、最大の武器は卓越した制球力だった。練習でランニング中の投手陣に向かって飛んできた打球に、球を投げて命中させた、という野球マンガのようなエピソードもある。

写真=BBM
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