昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。 東京・永田オーナーの焦り
今回は『1965年11月29日号』。定価は50円だ。
日本シリーズで巨人に敗れた直後、電撃辞任を表明した南海・
鶴岡一人監督。前回に続き、この号でも、鶴岡が次にどこの監督になるのかの記事にたくさんのページが割かれていた。
11月13日には、38歳の
蔭山和夫ヘッドコーチの昇格が発表され、鶴岡同席で就任会見が行われた。
「ツルさんが作った伝統は守っていきたい。これからも勉強して一生懸命やっていきたい」
蔭山は、緊張とともに、少し興奮した様子で話した。
鶴岡の進路について、マスコミは東京監督、サン
ケイ監督で二分されていたが、どうやらサンケイ有利になりつつあったようだ。
11月12日には大阪中之島のホテルでサンケイの水野オーナーと鶴岡が会談。各社、ここで決まり会見がある、と予想し、100人の記者が詰めかける騒ぎとなった。
心中穏やかでないのは、3年前に鶴岡を監督に誘った際、「南海をやめることになったらお世話になります」と言質を取り、来てくれるとばかり思っていた東京の永田雅一オーナーだ。
パ・リーグ総裁でもある永田は、
「鶴岡を絶対パ・リーグから手放すな。もし彼をセ・リーグに取られたらパは存亡の危機に陥る」
とコメントしていた。
南海では8日に
村上雅則が来日。日本人初のメジャー・リーガーとして大活躍し、地元山梨では大歓迎だったが、気になる来季については「いまは話せません」だった。
11月17日には第1回ドラフト会議が行われるが、その提唱者である西鉄・西亦次郎社長の退陣が発表された。博多ターミナルの社長に転身するとのこと。西は西鉄クリッパース時代から球団経営にあたっていた人物である。
後ろグラビアでは、ドラフトの目玉として甲府商高・
堀内恒夫が紹介されていた。本人は希望球団を語っていないが、父親は、
「できるだけ守備のいいチーム、勝てる望みがあるチームに入れてやりたい」
と話していた。
MVP、ベストナインの投票結果が発表された。
セのMVPは僅差になったが、
王貞治が650票で8時半の男、宮田征典の605票を上回った。
王の受賞を聞いた川上監督は投票権があった新聞記者に、
「宮田にあげることはできなかったのか」
と言ったという。
では、またあした。
<次回に続く>
写真=BBM