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パンチ佐藤の漢の背中!

うどん屋を経営する元Gドライチ横山忠夫氏が投球術向上のきっかけとなった川上監督のひと言とは?/パンチ佐藤の漢の背中!「1」

 

『ベースボールマガジン』で連載している「現役を引退してから別のお仕事で頑張っている元プロ野球選手」のもとをパンチさんが訪ね、お話をうかがう連載です。今回は元巨人ドラフト1位で、長嶋茂雄引退試合で最後に登板したことでも知られる横山忠夫さんが母校・立大に近い東京・池袋で経営するうどん屋さんを訪ねました。

「ボールの行き先はボールに聞いてくれ」からの脱却


横山忠夫氏(左)、パンチ佐藤


 立教大学のエースだった横山さんが巨人に指名されたのは、1971年。川上巨人V7の年である。

 長嶋茂雄、土井正三と立大の先輩はいたものの、「次元がまったく違った」と横山さん。「東京六大学通算16勝26敗のピッチャーを巨人がドラフト1位で獲ってくれたこと自体、自分でもビックリしたほどでした」という、期待と不安の入り混じった船出だった。

パンチ 初めてV9投手陣とともにキャンプのブルペンで投げたときは、どんな感じがしましたか?

横山 当時のエースが堀内(恒夫)さん。俺の球とはまったく違いましたねえ。

パンチ 何がどんなふうに違ったのでしょう。

横山 俺は北海道の網走南ヶ丘という、田舎の高校から出てきたんです。監督は、野球の経験もない数学の先生。大学では3人の監督に教わったけど、全員野手出身だったから、ピッチャーとして何も教わらないまま、自己流でプロ入りしたようなものだった。身長が181センチあって、当時としては大きいほうだったから、馬力を生かして真っすぐを力任せに放るピッチングですね。でも、そういうピッチャーがプロに入ると、2、3回は力任せで何とかなっても、そのうち肩や体が疲れてくると……。

パンチ よく言う“棒球”になるわけですね。

横山 そう。シュート回転して真ん中にボールが行っちゃう。そういう球をプロは打つから。

思い切り頭を振る豪快なフォーム。立大時代はノーヒットノーランを達成するなど、神宮の杜を沸かせた


パンチ そこからどうやって4年目の75年、堀内さんに次ぐ第2エースと呼ばれるまでになったのですか。

横山 最初の2年が終わって、1年に1勝ずつの計2勝。大学出だから、そろそろ活躍しないとクビだなと思ったとき、二軍に落とされたんですよ。そこでピッチングコーチの中村稔さんに、「川上(哲治=一軍監督)さんが“横山は自分のボールに責任を持たない。そういうピッチャーを俺は使わない”と言っているぞ」と言われたんです。それまでもコーチ陣にいろいろ言われていたけれど、俺も一応大学から入ってきた変なプライドがあって、素直に聞けない部分があった。それが、「一軍の監督がこう言っているぞ」と言われて、初めて自分のピッチングは自分で直さなきゃいけないと感じたんだね。

パンチ 川上さんのおっしゃる意味を、どんなふうに捉えたんですか。

横山 俺は自己流で、ただ思い切り頭を振って放っていたから、ボールがキャッチャーミットに届くまで、しっかり自分のボールを見ていなかったんですよ。ボールの行き先はボールに聞いてくれってね。だから、相手のタイミングが合うかどうかは、相手次第。勢いがあるときは、それなりに相手が打ち損じてくれるからいいんだけど、確信的に抑えているわけではなかったんだね。

 川上さんの言葉を聞いてから、キャッチボールのときも“だいたい胸のあたり”に放るんじゃなく胸のボタンならボタンにきっちり目掛けて放ろうと思って、そこから絶対、目線を外さないようにした。そのうち、キャッチャーが座ってアウトコース低めに構えてくれると、10球のうち7、8球は構えたところに行くようになったよ。そうしたら、不思議なことに二軍でほとんど負けなくなった。

パンチ それが3年目、イースタンで20連勝したときですか。

横山 そう。ただ、川上さんは俺が直ったなんて思ってくれなくてねえ。一軍では使ってもらえなかったんだけど、そのときやっと「ピッチングってこういうものなんだ」と分かったんだ、恥ずかしい話。

パンチ 学生時代は「だいたいあのへん」でも抑えられたけど、プロは違う。どこに力を集中させるかとか塩梅が分かって、最後、指先にしっかり神経が行くようになったんですね。

横山 そういうふうに自分が投げ始めると、バッターが詰まってゴロになったのか、変化球に対して体が先に出てゴロになったのか、とか見えてきてね。それで4年目、川上さんから長嶋さんに監督が代わった年の5月から使ってもらって、一軍で8勝できたんだ。

パンチ 僕は『背番号15』の横山さんが全身、全力で投げているイメージが頭に残っているんですよ。あれは長嶋さんのときだったんですね。

横山 1年間だけ。またそれから勝てなくなった。だけど、川上さんのひと言でピッチングの何たるかが分かり、そのおかげで今まで大学野球に関わらせてもらっているので、とても感謝しているんだよ。

俺みたいな性格ではこれ以上ムリ、と引退


立大の大先輩でもある長嶋茂雄監督就任1年目の1975年、8勝を挙げてキャリアハイの成績を残した


パンチ その後、現役最後の1年はロッテに移籍されたんですね。まだ28歳とお若かったのに、そこで引退を決められたのはなぜ?

横山 ロッテではリリーフを務めて、ようやく少しなじんできたかなと思ったときにね。誰かが投げていて、次は金田留広さんって決まってたんだ。だから俺はまったく準備していなかったんだけど、なぜか急に、しかもランナー二、三塁の場面でいきなり俺って言われてね。「ブルペンで投げてもいないのに、なんで俺なんだ」って、気持ちも乗らないままマウンドに行ったもんだから、ボコボコに打たれたんだよ。あんなやる気のないピッチングをしたのは初めてだった。

パンチ それが引き金なんですか?

横山 そうしたら……もう時効だろうから話すけど、金田(正一=監督)さんは俺に度胸がないと思ったんだろうな。「誰かにぶつけてみろ」と。そのくらい根性出せという、あの人なりのゲキなんだね。だけど俺、人を狙ってぶつけたことなんて一回もなかったから、ぶつけずにベンチに戻ったら、次の回も代えてくれない。で、またボコボコに打たれて、「弱ったなあ」と思って。でも日本人に当てるのは嫌だから、外国人の左バッターの足の、ケガをしないあたりを狙って投げてね。最初で最後だよ、狙ってぶつけたのは。それでやっと代えてもらったんだけど、その後、俺はなんだか腑抜け状態になってしまった。俺の野球人生、もういいやって。

パンチ スーッとファイトが抜けていってしまったような?

横山 俺みたいな性格じゃあ、プロ野球は無理だと思ったんだ。

パンチ ピッチャーっていうのは繊細じゃなきゃいけないし、また時には大胆じゃなきゃいけない。横山さんの場合、優しい面が最後にスーッと出てきてしまったんですかね。

横山 優しいというのかなあ、自分には男気が足りないなと思ってね。

パンチ ふっと闘争心が抜けちゃったんですね。さて、そこから第二の人生、どうしようと思ったんですか。

横山 野球をやめることを考えたとき、大学の野球部長だった野口先生の言葉を思い出した。「横山、プロに行くのはいいけれども、人生はそのあとが大事だぞ」というね。

パンチ いい先生ですね。ふつうは1位だったら、「やったじゃないか、ジャイアンツだよ」って大喜びなのに、「そのあとが大事だぞ」なんて。

横山 俺は本当に野球が好きなのね。だから野球に関わる仕事、野球のことが思い出されるような仕事をすると、俺の性格からして「あのとき、こうすればよかった」とか後悔ばかりで、第二の人生もダメになるんじゃないかと思った。それで、まったく野球から離れた仕事をしたいと堀内さんに相談したら、有楽町の銀座木屋といううどん屋さんを紹介されてね。そこの社長が田代照勝さんといって、国鉄スワローズでピッチャーをやったあと、プロの審判を務めていた方。その方にお会いして、木屋にお世話になることにしたの。

<「2」へ続く>

●横山忠夫(よこやま・ただお)
よこやま・ただお◎1950年1月4日生まれ、北海道出身。網走南ヶ丘高3年夏に甲子園出場。立大では2年春に早くもエース格となり3年秋に史上16度目のノーヒットノーランを達成。4年時は春秋で11勝(7敗)、特に早大にはすべて完投で4勝無敗だった。ドラフト1位で巨人に72年入団。長嶋茂雄監督となった75年にチームは最下位ながら規定投球回数に達し8勝を挙げた。ロッテを経て78年に引退。その後、都内に「手打ちうどん 立山」(東京都豊島区西池袋3-29-3)を開業。立大関係者、巨人関係者、常連のお客でにぎわっている。現在、立大野球部OB会長を務める。

●パンチ佐藤(ぱんち・さとう)
本名・佐藤和弘。1964年12月3日生まれ。神奈川県出身。武相高、亜大、熊谷組を経てドラフト1位で90年オリックスに入団。94年に登録名をニックネームとして定着していた「パンチ」に変更し、その年限りで現役引退。現在はタレントとして幅広い分野で活躍中。

構成=前田恵 写真=山口高明
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