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南海・蔭山和夫監督急死/週べ1965年12月6日号(前編)

 

 昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。

鶴岡前監督は涙の復帰会見


表紙は南海・蔭山和夫



 今回は『1965年12月6日号』。定価は50円だ。
 
 南海監督問題に急展開があった。
 経緯を簡単に振り返る。

 日本シリーズで敗れた直後、11月6日、南海・鶴岡一人監督が辞意を表明し、8日、球団が了承。
 実は、6日、鶴岡会見の3時間前に蔭山和夫ヘッドコーチが辞表を書いていたが、これは鶴岡が引き留めた。

 11日には、3年前にも招へいし、その際、「もし南海を退団したらお世話になる」と鶴岡に言われた東京・永田雅一オーナーが鶴岡の自宅に行き、直接交渉。

 翌12日、今度はサンケイの水野社長が大阪のホテルで交渉。13日には、新監督として蔭山コーチの昇格が発表され、鶴岡同席の記者会見があった。

 16日、鶴岡が「腹は決まった」と発言。17日に上京し、東京神宮橋ホテルで新天地を発表する、と語った(サンケイか東京か明らかにはせず)。

 そして17日、午前3時過ぎ、蔭山監督が自宅で意識不明に。運び込まれた病院で急死した。診断は、急性副腎皮質機能不全だった。
 午前5時20分、電話で一報を受けた鶴岡は知らせを聞き、自宅に集まった記者たちに「発表は予定どおりやる」と言い残し、8時過ぎに蔭山家に向かった。
 しかし蔭山邸を出るときには、
「蔭が死んだというのに、ワシのニコニコした写真を並べて載せられるかい」
 と発表を21日に延期する、と言った。
 死に顔に合掌した際、鶴岡は「ワシが殺したようなもんじゃ」とつぶやいたという。

 蔭山は日本シリーズ後からのドタバタ、さらには監督就任のストレスもあってか睡眠薬とアルコール(もともと飲めなかった)がなければ眠れないほどの精神状態だったという。
 最後の言葉は、
「ノム(野村克也)に連絡してくれ」だった。

 18日には選手会が会合を開き、鶴岡に復帰を求めることを決めた。ただ、一部の選手からは、
「チームを捨てた人にいまさら帰ってくれという必要はないだろう」という声もあり、紛糾した場面もあった。
 南海球団内にも杉浦忠を引退させ監督、ヘッドコーチに兼任で野村克也の意見もあったという。

 しかし、最終的には鶴岡の監督復帰要請で一本化。19日、球団が鶴岡を呼び、1時間15分の話し合い。会談後、鶴岡は、「困った、困った」と言った。

 20日、小雨の中で行われた蔭山の球団葬の後、会見し、鶴岡前監督の復帰を発表。鶴岡は「蔭山君の霊前で焼香したとき、ワシは南海に帰ることを誓った」と言った後、ハンカチを目にあて、号泣した。

 なお21日、サンケイでは飯田徳治ヘッドコーチの一軍監督昇格が発表されている。

 この号は初のドラフト会議の模様も掲載されていたが、南海の話が長くなったので、それは次回に(あすではなく、本日16時過ぎ予定)。写真は同じ表紙になるがご了承を。

 では、また夕方に。

<次回に続く>

写真=BBM
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