昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。 浪商・尾崎はなぜ殴られたのか?
今回は『1965年12月13日号』。定価は50円だ。
前々回、触れた南海・
蔭山和夫監督急死についての記事があった。重複する部分もあるが、前任であり後任の鶴岡一人監督の“進路”についての流れを中心に抜粋しておく。
1965年、鶴岡は球団重役を辞任し、球団の内の鶴岡派と言われた重役も次々飛ばされた。マッシーこと
村上雅則の契約問題がその理由だったという(64年オフ、大騒動になったSFジャイアンツとの二重契約問題)。
かねてから鶴岡は、南海のシブチン体質に不満があったようだが、このドタバタ騒ぎがトドメとばかり、南海退団を決意。後押ししたのが、「ちょうちん会」と言われた鶴岡の後援会だった。
この会は、早い時期から「南海を出て違う球団の監督になるべきだ」と鶴岡に言っていたらしい。
11月6日に辞意を表明した際には、会の有力後援者の一人は、かねてから噂があった東京オリオンズには「ツルさんは行かないよ」とはっきり言った。
この時点で鶴岡はサン
ケイ行きを決めていたと思われる。
サンケイと鶴岡をつないだのは、辞任を聞いた大洋・
三原脩監督と、元南海でサンケイのヘッドコーチ、
飯田徳治だったという。飯田は、鶴岡が南海入団時に下宿した岡田家の娘が夫人で、鶴岡に後妻を紹介したのも岡田氏だった。
8日には鶴岡は「あしたの新聞を見れば大体察しがつくはずや」と発言。翌日の新聞にはサンケイ社長が鶴岡監督に動き出した、という記事があった。
ところがこの後、大学入学時の保証人であった竹林医師と、プロ野球再開時の南海球団代表・松浦という、鶴岡にとっては恩人2人が、おそらく東京・永田雅一オーナーから頼まれたのだろう、鶴岡を「パ・リーグに残れ。東京のほうが優勝の可能性が高い。まずは永田さんに会ってみろ」と説得。
11日、鶴岡は自宅で永田と会談した。ここでどうやら永田の情熱に鶴岡の心は大いに揺らぎ、東京に傾いたようだ。
永田は「私はどんな立場の人でも最高の位置に立っている人は平等だと思う。野球の監督という最高の位置の人に最高の経緯を払った」と言ったが、サンケイの水野オーナーは、鶴岡と直接交渉をしながらも、陰では「なんで私が野球の監督程度を直接誘わなきゃいけないんだ」とこぼしていたと伝えられ、それが鶴岡の耳にも入っていた。
16日夜には17日午後4時、東京のホテルで新天地に関する会見を開くことを発表。しかし蔭山の急死で会見を延期、さらに、その後、南海監督復帰を果たした。
実際、鶴岡の決断はどちらだったのだろうか。
ちなみに鶴岡が会見を延期したとき、永田オーナーは、
「鶴岡君は東京に来て意思表明してから大阪に帰るべきだ」
と言い続けたという。
なお、蔭山が監督を引き受ける際の条件を聞き、少し驚いた。
「監督、コーチと球団は正式に契約すること」である。
要は、なんの契約書もない口約束で監督、コーチをしていたわけだ。以前、
巨人監督時代の
水原茂がそうであったという記事を紹介したことがあるが、まだ続いていたようだ。
20勝を挙げた東映・
尾崎行雄の浪商高時代の話もあった。
「殴られましたね。バットで殴られるのはまだいいんですよ。ホームベースのゴムがありますよね。これを二枚重ねて顔を思い切りたたかれたことがあるんです、これがね。僕は1年生から試合に出ていましたから代表して殴られるんです」
殴った先輩の言い分はこうだったらしい。
「憎くて殴るんじゃない。お前たちがこれから浪商というチームを育てるんだ。立派になってほしいからお前たちの精神をたたき直す。社会に出ても恥ずかしくない人間になってほしいから殴ったり蹴ったりしているんだ」
そうですか、という感じだ。
では、またあした。
<次回に続く>
写真=BBM