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プロ野球1980年代の名選手

今井雄太郎 1杯のビールが野球人生を好転させた“完全試合男”/プロ野球1980年代の名選手

 

1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。

投手2冠で阪急最後の優勝に貢献



 1984年のパ・リーグを制した阪急。そのときは誰も、それが70年代に黄金時代を築いた阪急にとって最後の優勝になるとは、夢にも思わなかったことだろう。その最後の優勝に最も貢献した打者は、間違いなく三冠王のブーマーだ。

 一方の投手は多少、議論が分かれそうだ。長くエースを担ってきた山田久志は14勝4敗で勝率.778、リーグ2位の防御率3.27。エースとしての貫録も申し分なかった。そんな山田に勝率こそ届かなかったものの、21勝9敗で勝率.700、防御率2.93で最多勝、最優秀防御率に輝いたのが今井雄太郎だ。いずれにしても、今井と山田が防御率でリーグ1、2位に並び、勝利数の2位と防御率の5位には佐藤義則もいた投手陣に、黄金時代の再来を感じたファンも少なくなかったのではないか。その一方で、78年に完全試合を達成した右腕にとっては、プロ14年目に迎えたキャリアハイだった。

 野球が決して盛んとは言えない新潟県の出身。中越高では3年の夏に新潟県の代表として北越大会に出場したものの、初戦でストライクが入らず敗退、プロのスカウトも視察に来ていたが、獲得を見送られる。のちに極度のアガリ症で知られるが、それは当時からだったのかもしれない。その後は新潟鉄道局へ進み、貨物列車に飛び乗って荷物の行き先を分けるなど危険も伴う過酷な労働の合間にトレーニングを重ねて、3年目に全国鉄道大会で活躍。ドラフト2位で71年に阪急へ入団した。だが、プロ入り後も苦難は続く。ブルペンでは絶好調でも、実戦のマウンドに立つと、緊張もあって打ち込まれた。

 転機は78年。新潟県は野球こそ盛んではないが、全国きっての米どころであり酒どころで、やはり(?)大の酒好きでもあった。キャンプ中には酔っ払って門限を破った上に、あろうことか上田利治監督の部屋に間違って入ってしまったというエピソードも持つ右腕の酒好きに注目したのが、阪急のレジェンド左腕でもあった梶本隆夫コーチだ。

 5月4日の南海戦(大阪)での先発登板を前に、梶本コーチからビールを勧められる。そのビールが野球人生どころか人生をも変えた。1杯のビールで人生を狂わせてしまうケースは少なくないが、人生を好転させた人類の歴史上でも稀に見る(?)1杯をエンジンにしてシーズン初勝利を挙げて自信を深めると、以降も勝ち進んで8月31日のロッテ戦(県営宮城)で完全試合を達成。それから40年を経た現在も指名打者制では唯一の完全試合だ。

 プロ7年で6勝しか挙げておらず、もはやクビ寸前だった右腕が、最終的にはシーズン13勝、リーグ2位の防御率2.38。81年には19勝を挙げて、初の最多勝に輝いた。

阪急魂をオリックスに


 83年に15勝、Vイヤーの84年には自己最多の21勝を挙げたが、85年の12勝が最後の2ケタ勝利に。終焉に近づいていく阪急と足並みをそろえるかのように、徐々に失速していく。そして88年10月19日、奇しくも近鉄がリーグ優勝を懸けてロッテとのダブルヘッダーに臨んでいた日に、優勝に絡むこともなかった阪急の身売りが発表された。

 それが寂しかった。阪急ファンならずとも、当時のプロ野球ファンでも寂しいのだから、阪急の選手ならばなおさらだろう。山田や福本豊とともに引退を決意。だが、上田監督から「阪急魂を新チームに植えつけてくれ」と言われて現役を続行した。

 オリックス1年目の89年は、若手と同じメニューをこなすなどキャンプを精力的に過ごしたものの、開幕すると二軍落ち。それでも4月下旬に復活して、9月7日の西武戦(西宮)では、およそ2年ぶりの完投勝利を収めるなど、阪急ラストイヤーとなった88年の2勝を上回る5勝を挙げた。

 しかし、90年はゼロ勝に終わると、球団から引退して営業部で働くことを勧められる。即座に拒否してダイエーへ移籍、91年5月9日のオリックス戦(平和台)でシーズン初勝利。この“古巣”からの勝利が、現役生活21年における最後の勝ち星となった。

写真=BBM

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週刊ベースボール編集部

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