昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。 東京の木樽交渉は難航中
今回は『1966年1月3日号』。定価は50円だ。
また年が変わった。月号上では9年目に突入だ。
国鉄スワローズからチーム名を変え、65年途中からスタートしたサン
ケイ・スワローズが、ニックネームの公募を始めた。12月25日が締切、発表は66年新春という。
サンケイ・友田社長は「もう、ひかり号が走るようになったからね」と理由を語った(特急燕が由来と言われていた)。
この時点で寄せられていたニックネームは、
「フェ
ニックス、イーグルス、サンダース、
ヤンガース、コンドル、ヴィクトリー、ワールド、パイレーツ、ジャガース、エレファンツ、エンジェルス、ベアーズ」
だったという。
第1回ドラフト会議の後、契約金の問題などからスロースタートとなっていた新人の入団契約。大物では、いまだ東京から指名された銚子商高の
木樽正明、
中日から指名された慶大の
広野功の契約が決まっていなかった。
木樽は大学への進学希望があったこと、さらに父親の怒りが障害になっていた。
それはそうだろう。ドラフト前、ほぼ全球団のスカウトが木樽家を訪れ、「1位指名します」とあいさつ。それがフタを開けたら競合を恐れ、1位指名は皆無。東京の指名は2巡目だった。
父親は、
「もうプロのスカウトは信用しない」
とカンカンだった。
広野の場合は、東京六大学代表としてマニラでのアジア大会に出場するため、交渉自体がまだだった。
もともと広野は南カリフォルニア大に留学し、その後、ドジャース入りを希望しており、ドジャース関係者ともすでに接触していた。
ただ、ドジャース側の評価が意外と低く、この時期の広野は迷い始めていたようだ。
この年も、エールフランスが優勝チームから2選手を招待する恒例のヨーロッパ旅行があった。巨人が
宮田征典と森昌彦、南海が
杉浦忠、
野村克也がそれぞれ夫妻で参加。森と野村、どんな話を毎日していたのか。
また、台湾から巨人・王貞治が帰国。空港で本誌の記者を見つけ、「お宅の雑誌のせいで、あちらでは大騒ぎでしたよ。向こうでも読んでいる人がたくさんいますからね」と言った。
本誌の「王の台湾旅行は花嫁探し」という記事だった。
当時の台湾は日本語を話せる人が多く、王の活躍もあって週ベを取り寄せていた人も多かったらしい。
では、またあした。
<次回に続く>
写真=BBM