1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。 最多勝3度の右腕“エース”
「俺が一番なのはタフさだけ。大したことないピッチャーですよ」
そう振り返るのは、2008年に監督として就任1年目にして西武を優勝、日本一に導き、19年もGMとして手腕を発揮している渡辺久信だ。確かに、チームメートで左腕エースだった
工藤公康が「俺にナベの体があったらなぁ。完投しても、マッサージも受けずにケロッとして『じゃあ、お先です』だからね」とうらやむほどタフだったが、
「マッサージはしないというか、し過ぎると筋肉がダラダラになる。回復するのが早いから、張ってても、ちょっと揉んだらユルユルになるんです。だから登板の日はしない。してる人がいたけど気が知れなかった。俺だったらボールがあっちゃこっちゃ行っちゃうよ」
なのだそう。だからといって、卓越した身体能力でMAX150キロを超える快速球を投げ込んで、1986年から隔年で3度の最多勝に輝いた右腕は「大したことないピッチャー」などとは、本人でなければ言えないだろう。「自分がエースだと思ったことはない」
とも語る。入団会見ではリーゼント姿。その後もプライベートではDCブランドで決めて“新人類”と呼ばれた19歳の若者は、
広岡達朗監督の“管理野球”で頭角を現していく。
「OB会の人が、お前にはついていけない、と(笑)。(それまで)自由奔放に野球をやっていたんで、管理される野球はどうかな、って。でも、意外とすぐ順応できたし、入ったときに広岡さんの下でやったのは良かった」
1年目の1984年から一軍デビュー。2年目にはクローザーも担い、
森祇晶監督となった3年目の86年に終盤はリリーフに回りながらも16勝を挙げて初の最多勝に輝いた。勝率、奪三振もリーグトップで、2度目の最多勝となった88年から2年連続15勝、3度目の最多勝となった90年が自己最多の18勝。最多勝に輝いた3年は日本シリーズでも勝ち星を挙げて、日本一にも貢献している。さらに、好投手がズラリと並んだ黄金時代の西武にあって、この3年は投球回もチームトップ。タフなのも、やはり間違いない。
「ただ、監督をやってみて、俺みたいなピッチャーって必要なんだよね。多少は勝ったり負けたりがあっても、1年間ローテを崩さない投手、しっかり試合を最後まで投げられる投手。大したことないピッチャーだったけど、大事だなって監督をやってみて分かった」
だが、90年代は徐々に失速していった。
印象に残るのはブライアントの一発
「そこまでの選手だったと思いますよ。早咲きだったんじゃないの」
と振り返るが、96年には6月11日の
オリックス戦(西武)ではノーヒットノーランを達成している。98年の1年だけ
ヤクルトでプレーして台湾球界へ転じ、
「引退を決めて、コーチになるつもりで台湾に行ったら、投げながら指導してくれ、になった。投げることに関しては楽しめましたね」
と最多勝、最優秀防御率に。2001年限りで現役を引退。印象に残る試合として、89年10月12日の近鉄戦ダブルヘッダー第1試合(西武)を挙げた。
ブライアントに4打数連続本塁打の3本目、そして最終的に近鉄のリーグ優勝を許した試合だ。
「中1日、ブライアント対策でベンチに入っていた。得意だったからね。あのとき勝負球は2つしかない。高めの真っすぐか低目のフォーク。それでストレートを選択して、それまでのブライアントの空振りゾーンを狙った。打ったほうがすごいと思うしかないでしょう」
そんな黄金時代の右腕“エース”も、西武へ入団しない可能性もあった。83年秋のドラフトで、
高野光の外れ1位で指名されての入団。クジもさることながら、
「日本石油に内定をもらっていて、2位以下なら行きますけど、1位なら(入社を)考えさせてください、って言っていた」
という。西武がドラフトでクジを外していなければ、黄金時代の“ナベQ”も、現在の“渡辺GM”も存在しなかったかもしれない。
写真=BBM