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プロ野球1980年代の名選手

石毛宏典【前編】黄金時代の西武で新人王からチームリーダーへ/プロ野球1980年代の名選手

 

1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。

西武に吹き込んだ新しい風


西武・石毛宏典


「入ったとき、言い方は悪いけど、寄せ集めのチームでしたね。投手では山下律夫さんが最年長で、東尾修さんがいて、打者では土井正博さん、田淵幸一さん、山崎裕之さん、大田卓司さんと、みんな30歳代でしょ。20歳代の森繁和さん、松沼兄弟(博久、雅之)もいたけど、ほとんどオッサンばっかり。しかも見事にバラバラでしたね(笑)」

 こう振り返るのは、社会人No.1内野手としてプリンスホテルからドラフト1位で1981年に西武へ入団した石毛宏典だ。開幕スタメンに抜擢されると、いきなり3連打。3本目は本塁打で決めて、そのままロッテ落合博満日本ハム島田誠らと首位打者を争った。終盤に失速して首位打者は逃したが、最終的には打率.311、21本塁打に加えて25盗塁、31犠打。新人王、遊撃のダイヤモンド・グラブに輝いて、「オッサン」だらけの西武に新しい風を吹き込んだ。

 当時の西武は根本陸夫監督だった。

「メジャーも見てきた人だから、その影響もあったんでしょうね。それを理想に、本当の“大人の集団”は自己責任でやるんだ、というのがあったんでしょう。監督としては優勝できなかったけど、その後、管理部長をしていた時期を含めて、戦略的にやっていたな、と思いますね。長期的なビジョンの中で、この選手は年齢的に力が落ちるはずだから、こういうタイプを補強しておこうとかを全部、考えてやっていた気がします」

 そんな根本を「オヤジ」と呼んで慕う。「サラリーマンの友人を大切にし、話を聞け。彼らは時代とともに生きている」などの根本の人生訓を、今でも大事にしているという。

 翌82年からは広岡達朗監督に。厳しい“管理野球”には対応できたが、現役時代は巨人の名遊撃手として鳴らした新監督から、自信のあった遊撃守備を徹底的に否定される。

「形態模写がうまくてね。『お前の動きは、こうじゃ』とか言って実際にやって見せて、そんなに不格好じゃないと思うんだけど、周りに聞いたら『そっくり』って(笑)。一度、『いまは通用するかもしれんが、しっかり基本を身につけ、正しい技術を覚えないと、将来、指導者になったときに教えられんぞ』と言われたことがあります。僕が見てきた指導者の中では、守備も打撃も広岡さんが一番でした」

 その82年に西武となって初優勝、日本一。翌83年も連覇を果たした。広岡監督のラストイヤーとなった85年も日本シリーズこそ“猛虎フィーバー”の阪神に及ばなかったもののリーグ優勝。その翌86年には森祇晶監督が就任して、88年までリーグ4連覇、3年連続で日本一に。90年代に入ると、94年まで破竹のリーグ5連覇。西武は前身の西鉄時代を凌ぐ黄金時代へと突入していった。

西武が黄金時代を迎えた理由


「西武が長く強かった理由というと、やっぱり根本さんなのかな。新人の補強も根本さんの人脈、“裏技”を使って、秋山幸二伊東勤工藤公康と集めていた。ある程度、道を作ってから、『俺では、これだけの選手を料理できないから』と言って、広岡さんを呼び、教育を託した、という感じですよね。年齢的なバランスも良かった。僕の後に野手なら伊東や辻発彦、秋山が入って、さらに後には清原和博。投手なら東尾さんが残った中で、工藤や渡辺久信がいた。うまく世代交代ができていましたよね。これも根本さんの手腕でしょう。根本さんの人集め、広岡さんの教育。3人目の森さんはマネジメントができた方でした。絶妙の順番でしたよね」

 着実に西武が強くなっていく一方で、大ベテランたちはユニフォームを脱いでいった。そんなベテランたちと入れ替わるように、フロントに転じた根本はスカウトを全国に派遣して、才能あふれる若者たちが次々に入団。わずか数年前の若武者は、早々にチームリーダーとしての存在感を高めていく。後輩といってもクセモノぞろい。高校と大学で主将を務めた経験と陽気なキャラクターで、世代交代に成功した西武をまとめ上げていった。

写真=BBM
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