1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。 「ズドン!」からキレのいい速球に
プロ3年目となった1980年は、
「打者ではなく、スピードガンを相手に投げていた時期ですね(笑)」
という。その前年、普及し始めたスピードガンで最速記録を次々に更新して“スピードガンの申し子”と呼ばれた中日の小松辰雄だ。
「150キロ出すと、お客さんが沸くでしょ。ムキになって投げて、すぐスピードガンのほうを振り向いて見ていたときもあった(笑)」
翌81年はクローザーとしてスタートしたが、
近藤貞雄監督から「気分転換に」と言われて先発に回ると、いきなり完投勝利。最終的には12勝11セーブをマークした。だが、続く82年はキャンプから体調が悪く、
「たぶん花粉症だったと思うけど、当時は花粉症なんて言わない時代だから、風邪が長引いたと思っていた。それでも近藤さんから開幕投手と言われて投げたんだけどノックアウト。ミニキャンプをやれと言われて、その2日目かな、内転筋がブチッと」
シーズン最終戦となった10月18日の大洋戦(横浜)が開幕戦に続くシーズン2度目の先発。この試合を完封したことで中日はリーグ優勝を決め、胴上げ投手となった。
「最初と最後のキセル男と言われました」
と笑って振り返るが、当時は先発すれば完投が当たり前という時代。翌83年からは9回を投げ切る力の配分を考えるようになる。痛めた右足の内転筋は慢性化。速球勝負をあきらめかけたときもあったというが、フォームを修正したことで速球の質が変わっていく。
「最後に左足が突っ張るフォームだったけど、左ヒザを曲げるようになって、体重移動がスムーズになった。実は左の太ももをケガして伸ばせなかっただけ。ケガの功名ですね」
若手時代の「ズドン!」という速球から、キレのいい速球に。力いっぱい投げるよりも、七分から八分くらいの力で投げるほうが球は伸び、打者が打ちにくい、ということも分かってきた。先輩の
鈴木孝政から「初球は遅い真っすぐを、ど真ん中に投げてみろ。絶対に打ってこない」と言われ、投げてみると、
「チェンジアップじゃなくて、投げる瞬間に力を抜く、普通のストレートなんです。打者が何を待ってるかも分かったから、打ち気がないと思えば、ど真ん中に緩いストレートを投げた。打者が『ええっ?』って顔して見送るんです。あれが快感でね(笑)」
85年に防御率2.65、17勝、172奪三振の“投手3冠”。沢村賞にも選ばれた。
「あのときはピッチングがおもしろくてたまらなかった。ゾーンに入るというのかな。何を投げても打たれない」
87年に2度目の最多勝も……
だが翌86年、本拠地開幕戦でライナーを足に受けて感覚を見失ってしまう。続く87年には兄貴分と慕った
星野仙一監督が就任。
「開幕投手と思ったら3試合目に回されてね。巨人戦に負け、負け、で来て、俺が完封したんです。その後また阪神戦に完封して、2連続完封で始まった。開幕投手を外されたのも、ナニクソ、という力になりました」
最終的に自己最多に並ぶ17勝で2度目の最多勝に。だが、Vイヤーの88年は12勝。
「開幕投手をやったら、そこで内転筋をケガ。どうしても成績は1年おきが多かった。ひとつはケガですね。内転筋をやって以来、かばうから別のところを痛めることも多かった」
それでも94年までプレーを続けたが、引退に追い込んでいったのも、やはり足だった。
「ケガは、ある意味、速い球を投げる投手の勲章だとは思うけど、肩、ヒジじゃなく、足のケガだったから、悔いはあった」
10月8日の巨人戦(ナゴヤ)で引退セレモニーが企画されていたというが、これがプロ野球で初めて最終戦での同率の直接対決で優勝が決まる、いわゆる“10.8”となって、
「あの試合では無理だよね(笑)」
翌95年、オープン戦の
オリックス戦が引退試合。地元の愛知で高校時代を過ごし、投手としてフォームに大きな影響を受けた
イチロー(現マリナーズ)が打席に立った。
写真=BBM