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プロ野球1980年代の名選手

佐藤義則 魔球“ヨシボール”で咲かせた満開の花/プロ野球1980年代の名選手

 

1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。

阪急ラストVに貢献


阪急・佐藤義則


 その22年は決して順風満帆ではなかった。それどころか、若手時代の投球フォームのように、危なっかしくさえあった。早咲きでもあるし、遅咲きともいえるが、その間、たびたび散りかけながらも、確かに満開の花を咲かせた時期もあった。若手として阪急黄金時代に貢献し、ベテランとしてオリックスの初優勝で存在感を発揮した。阪急の佐藤義則は、オリックスの佐藤義則でもあった。キャリアハイは阪急時代、最多勝の1985年、最優秀防御率の86年だろう。その頃、すでに30歳は過ぎていたが、まだまだキャリアの折り返し地点は過ぎていない。

 北海道の奥尻島に生まれた。日大からドラフト1位で77年に阪急へ。即戦力となって1年目から7勝で新人王。これぞ荒削りともいえる力まかせの投球フォームを、南海の野村克也監督は“ギッコンバッタン投法”と名づけた。

 翌78年には初の2ケタ13勝を挙げて、連覇に貢献した。以降2年連続2ケタ勝利。だが、80年は4勝に終わると、課題だった制球難を克服するべく、梶本隆夫コーチとフォーム改造に取り組んだ。しかし、翌81年1月の自主トレ中に、ぎっくり腰を発症、1年間をリハビリに費やすことに。翌82年1月には、かなり回復していたにもかかわらず、支配下登録を外され、練習生として扱われる。早咲きの花が、早くも散りかけた。

 それでも開幕を前に再び支配下登録され、クローザーとして82年に、13セーブ、83年は16セーブ。散りかけた花が、まだ五分咲きだったことが分かったのは阪急にとって最後のVイヤーとなった84年だ。4月に念願の先発に戻ると、チームメートで最多勝の今井雄太郎に次ぐ17勝、リーグ5位の防御率3.51。2年連続リーグ最多奪三振となった翌85年は昭和では最後の20勝となる21勝を挙げて最多勝に。下位のチームから荒稼ぎしたわけではない。王者の西武に11試合で8勝2敗。強者に牙をむく勇者の勲章だ。投球回260イニング1/3で188奪三振も、失点136、自責点124、被安打279、与四球105は、すべてリーグ最多だった。

 続く86年は一気に安定感が増す。投球回は100イニング近く減らしたものの、それ以上に失点、自責点を減らして防御率2.83で最優秀防御率。その翌87年は12年連続で務めてきた山田久志の後を受けて開幕投手に。阪急ラストイヤーとなった88年がキャリア最後の2ケタ勝利となる13勝。それでも、ようやく折り返し地点を過ぎたばかり。その後、チームがオリックスとなってからも、10年もプレーを続けることになる。

ノーノーでオリックス初Vを後押し


 長い現役生活を支えたのは、徹底的な走り込み、投げ込みだった。そして、唯一無二の魔球“ヨシボール”。大学時代、指が短かったためフォークが投げられず、人さし指と親指で挟んで、その間から抜いた。

「きちんと抜けたときは打たれた覚えはない」

 と胸を張る。後輩にも惜しまず投げ方を教えたが、誰もマスターできなかったという。

 オリックス時代は2ケタ勝利こそなかったが、93年から2年連続で規定投球回にも到達。94年にはリーグ5位の防御率3.52をマークしている。オリックス初優勝の95年は4勝に終わっているが、そのうち1勝はノーヒットノーラン。1安打でも許したら降板する予定だったというが、気づかれないように野手陣が集まって「体の横で打球を弾いたらヒットになるから、何が何でも正面で捕れ」と声を掛け合っていた。そして打者31人に対して132球を投げ抜き、最後は“若妻”中嶋聡のサインに2度、首を振って“ヨシボール”で空振り三振。当時の最年長となる40歳11カ月でのノーヒットノーランに、

「一度はやってみたかった」

 と声を弾ませた。44歳を迎えた98年に目標だった通算500試合登板に到達して現役引退。引退試合を終えて、会見で、

「きょうは楽しい酒になるな」

 野球を愛し、酒を愛した右腕だった。

写真=BBM
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