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平成助っ人賛歌

アロンゾ・パウエル “イチローを超えるヒットマン”と称された打撃職人/平成助っ人賛歌【プロ野球死亡遊戯】

 

2年連続で首位打者を獲得


92年、中日に入団するために来日したパウエル


 あなたの部屋にも、あの懐かしの助っ人選手がやってくる。

 7年前に『ジョージアヨーロピアンブラック』ボトル缶におまけで付く、「プロ野球助っ人外国人フィギュア」キャンペーンというのがあった。115円で買える全8種の絶妙なラインアップは、ランディ・バース阪神)、ウォーレン・クロマティ巨人)、ブーマー・ウェルズ(阪急)、アニマル・レスリー(阪急)、ロバート・ローズ(横浜)、ラルフ・ブライアント(近鉄)、オレステス・デストラーデ西武)、アロンゾ・パウエル(中日)だ。

 まさに80年代中盤から90年代にかけて活躍した伝説の助っ人たちである。当時、バース、クロマティ、デストラーデ、ブライアントは店頭に並ぶとすぐ売り切れてしまい話題に。自分も「あのすいません、クロマティありますか?」なんてなんだかよく分からない質問を店員さんにしたものだ。対照的にどのコンビニでも最後まで棚に残っていたのはパウエルだった。そんな風景を見て、「パウエルらしいな」と思ったのをよく覚えている。現役時代から、地味で目立たない実力者と言われていた選手だが、残した数字はすさまじいものだった。なにせ90年代中盤には「イチローを超える“ヒットマン”」と称されていたのだから。

 パウエルは1992年開幕後に、わずか35万ドル(約4550万円)で中日に入団。マーク・ライアル(のちに巨人でプレーして三振後クラブハウスへ帰ってしまったラスティ・ライアルの父親)の故障を受けての緊急獲得である。若手マイナー時代、オフは空港で荷物の積み降ろしアルバイトなどで食いつなぐ日々。モントリオール・エクスポズ傘下に所属していた際、日本で活躍したレオン・リー氏から「きみのスイングは日本向きだと思う。研究熱心のようだし、日本に行けば成功するんじゃないか」とアドバイスされたこともあったという。

 まだ27歳で85年にはマイナー・リーグで年間21補殺を記録したこともあるパウエルは、来日1年目からシュアな打撃で打率3割をクリアしたものの、92年は88試合出場、93年は浜松球場のダグアウトの階段で足を滑らせ左ヒザの半月板を損傷し、97試合と当初は年間出場試合100を切るシーズンが続いた。だが、落合博満が巨人へFA移籍した94年は四番に座り、打率.324で自身初の首位打者を獲得。翌95年は打率.355のハイアベレージで、2位ロバート・ローズ(横浜)に4分差をつけ独走で2年連続のタイトルホルダーに。中日・足木敏郎渉外担当の「三振の少ない、二塁打が多い選手は日本の球場なら本塁打になる」というスカウト基準がズバリ、ハマった選手でもあった。

出場試合数と打点の少なさで低評価


シュアな打撃でヒットを量産した


 トレードマークはヒゲと日本ではまだ珍しかったエルボーガード。しかし、パウエルの評価にいつもついてまわったのが、出場試合数と打点の少なさだ。94年は110試合、76打点。95年は101試合、69打点。セ界屈指の安打製造機と言われながらも、長打を求められる外国人選手としては物足りないと指摘されることも多々あった。本人もそれは自覚していたようで、週刊ベースボールの名物コーナー『週べオーロラビジョン』ではこんなコメントを残している。

「ヒザの持病のために、最高で110試合(94年)しか出れなかった。今年、全試合に出るために昨年のオフに左ヒザ手術を受けた。手術をして正解だったというために、今年こそ130試合全部に出たいんだ」

 さらに88年以来優勝から遠ざかるチームの四番打者として「(2年連続首位打者は)個人としてうれしくないと言えばウソになる。でも、チームでプレーしながら自分一人しか喜べない状況にものすごい物足りなさを感じた。自分の打率が2割5分でも、それでチームが優勝できるのなら、ボクは2割5分のほうを選ぶよ」とフォア・ザ・チームの決意表明で星野仙一監督が5年ぶりに復帰する勝負の平成8年シーズンに臨んだ。

外国人選手初の快挙を達成


阪神で来日7年目を迎えたが、その年限りで解雇された


 当時のパウエルの状況をあらわす特集が週刊ベースボール96年6月17日号に掲載されている。「もっと知りたい! 球界屈指の強打者パウエルの心・技・体 今やイチローを超える“ヒットマン”の真実に迫る!」のリード文では、「このままトップを走り続ければ3年連続首位打者という、史上5人目の快挙達成となる。だが、このセ・リーグ屈指の“ヒットマン”、その活躍度の割に今ひとつ注目度に欠ける」と軽くディスられる悲運の安打製造機。

 実は来日5年目を迎える直前、軽いクリーニングのつもりで受けた左ヒザ手術だったが、筋肉や靱帯がかなり痛んでいたという。キャンプに合流した2月中旬はダッシュすらおぼつかない状態。それでも、開幕に間に合わせると春先からヒットを量産し、星野中日の“強竜打線”を牽引。ナゴヤ球場ラストイヤーで一番ダネル・コールズが29本塁打、山崎武司大豊泰昭は最後まで巨人の松井秀喜と三つ巴のホームラン王争いを繰り広げ(最終的に山崎39本、大豊・松井38本)、四番パウエルはリーグ最多の176安打(42二塁打)で打率.340と外国人選手初の3年連続首位打者を獲得。同時に宣言どおりキャリア初の130試合フル出場を実現してみせる。チームは最後まで熾烈な優勝争いを繰り広げるも、最後は長嶋巨人のメークドラマの前に涙をのんだ。

 97年から広いナゴヤドームが開場され、ヒザに爆弾を抱え守備に不安のあるパウエルはその年限りで解雇。翌年は新天地の阪神で来日7年目を迎えるも、往年の打撃は見られずシーズン途中に帰国した。

 アロンゾ・パウエル。確かに、助っ人としては地味だったかもしれないが、この男は間違いなく平成を代表するヒットメーカーだった。なお、平成30年間で3年連続首位打者を獲得したのは、イチローとパウエルの2人のみである。

文=プロ野球死亡遊戯(中溝康隆) 写真=BBM

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週刊ベースボール編集部

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