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プロ野球1980年代の名選手

リチャード・デービス 猛牛の優良、そして“最凶”スラッガー/プロ野球1980年代の名選手

 

1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。

陽気な好打者だったが……


近鉄・デービス


「僕は日本で1年でも長くプレーをしたい。ガムシャラにタイトルを狙い、仮に獲っても無理が響いて翌年、成績が落ちたら、クビになってしまう」

 1985年から2年連続で三冠王に輝いたロッテ落合博満に、こう語ったのは、その落合が最も警戒した打者の1人だった近鉄のリチャード・デービスだ。落合が中日へ去ってからも、タイトルについて尋ねられると、

「タイトルなんていらない。どうせ、落合がいなかったから、と言われるしね」

 と、露骨に嫌な顔をした。藤井寺球場の汚さに「ゴキブリが出るような球場で野球をやりたくない」と帰国してしまったマネーの代わりに、84年シーズン途中に緊急来日。相手投手の情報を積極的にメモするなど真面目に取り組み、78試合で18本塁打を放つなど、すぐに日本の野球にも慣れた。チームの若手を自腹で食事に誘って、自らの野球哲学を伝授するなどチームメートの信頼も集め、緩慢プレーのチームメートに食ってかかったことも。

 来日1年目は外野、2年目からは一塁を守ったが、外野守備ではスローイングに難があり、一塁守備では凡フライをキャッチして大喜びするほど守備は苦手だったが、打っては通算打率.331、キャリアハイの85年はパ・リーグ新記録の6試合連続を含む40本塁打、109打点、打率.343。こうした“優良外国人”的な面を持ち合わせていたのも確かだ。

 だが、残念ながら、この男の最も記憶に残る姿は、バットもボールも持っていないシーンではないだろうか。

 ふだんはジョークばかりの陽気な性格。だが、短気さも天下一品だった。すぐにヘルメットを叩きつけ、シーズン前に準備していた9個を夏までに壊してしまい、用具係をあきれさせたことも。86年5月7日の西武戦(西武)で三振に倒れると、ベンチの隅にあったアイスボックスにパンチ。拳を12針も縫ったが、翌8日の同カードで何事もなかったかのようにスタメン出場して、工藤公康から本塁打を放ったこともあった。

 矛先が物に向いているうちは、まだ良かった。事件が起きたのは6月13日の西武戦(西武)。6回表一死の場面で、東尾修の投球を右ヒジに受けると、すぐさまマウンドへと突進していく。東尾に4発のパンチ、キックまで繰り出した。もちろん退場となったが、

「俺には養わなければならない妻子がいる。正当防衛だ。おかしいだろ。東尾のようなコントロールのいい投手が、どうして俺に何度も危険な球を投げるんだ。処分は受けるが、反省する気はない」

逮捕で終わったキャリア


 出場停止10日間、制裁金10万円の処分。だが、暴力沙汰は問題外としながらも、通算与死球のプロ野球記録も更新し、厳しく内角を攻める東尾の“ケンカ投法”に苦しんできたパ・リーグの他球団から、被害者である東尾を非難する流れになっていく。

 この事件を契機に東尾の内角攻めは徐々にすご味を失っていった一方で、“加害者”は6、7月こそ打率を下げたが、8月には復調して、シーズン36本塁打、97打点、打率.337。阪急のブーマーと並んで、パ・リーグを代表する助っ人としての地位を確立した。

 しかし、それも長く続かなかった。唐突に、そして最悪の形で、そのキャリアは終わりを告げる。88年シーズン中、6月7日に自宅から14グラムの大麻が押収され、大麻取締法違反の容疑で現行犯逮捕。

「友人から傷に効く薬だと言われて貰った」

 と容疑を否定したが、85年には米国のコカイン売買事件で名前が挙がって大騒ぎとなったこともあり、球団は早々に解雇を決めた。

 数字だけ見れば、最強の助っ人に名前が挙がる存在ではある。だが、多くの“お騒がせ外国人”が球史に悪名を残した中で、“最凶”の助っ人は間違いなく、この男だろう。そして、迅速な決断をした近鉄は運命が好転する。その穴を埋めるべく、急遽、中日から獲得した助っ人がブライアントだった。

写真=BBM
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