1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。 82年から2年連続2ケタ勝利
“猛虎フィーバー”に沸いた1985年。すさまじい猛打で21年ぶりのリーグ優勝へと突き進んでいった阪神だったが、その象徴的な試合といえば、4月17日の巨人戦(甲子園)が真っ先に挙がってくるだろう。2点ビハインドの7回裏二死一、二塁から三番のバースが3ラン、続く四番の
掛布雅之がソロ、そして五番の
岡田彰布もソロ。いずれもバックスクリーン方向へ飛び込む“バックスクリーン3連発”だ。
この試合の勝利投手が工藤一彦。7回表に代打を送られ、ロッカーへ向かっていたところ、どよめきが起きたため選手食堂へ。これがバースの1本目だった。そして、食堂のテレビで掛布、岡田の本塁打を見届け、
「最後は鳥肌が立ちました」
と振り返る。一方、この試合は、勝ち星を拾った右腕のキャリアを象徴するようでもある。バースや掛布、岡田のように、華々しく球史に名前を刻みつけたわけではない。エースと呼ばれることもなく、投手タイトルもなかった。だが、ブレークしてからはコンスタントに投げ続け、第一線で機能し、そっと名前を球史に置いていった、そんな雰囲気が漂う。筆頭に挙がることはなくとも、80年代の阪神を語る上では欠かせない右腕だ。
土浦日大高では3年時、春夏連続甲子園出場。夏は初戦の2回戦で
原辰徳(のち巨人)を擁する東海大相模高と延長16回の激闘を演じ、263球の熱投も2対3で惜敗した。鹿児島実高の
定岡正二(のち巨人)、銚子商高の
土屋正勝(のち
中日ほか)、横浜高の
永川英植(のち
ヤクルト)らと“高校四天王”と騒がれ、秋にはドラフト2位で阪神に指名され、75年に入団。芽が出るのには時間を要した。
長身で、のっそりしたイメージがあり、ニックネームは“ゾウさん”。背の高い投手は、長身を利して投げ下ろす、というピッチングが多いが、そのフォームを捨て、低めへ集める制球を磨いたことがブレークを呼んだ。早めに体を折って目線をリリースの高さに合わせ、制球のブレを防ぐ。上体はクロス気味になるが、左足はスクエアな踏み出しを意識し、踏み出してからは体の左側を一気に開いて勢いをつけ、フォームの小ささをカバー。右打者へはアウトロー、左打者へはインローへとストレートを配し、フォークやスライダーも同じところから変化させた。
82年に初の2ケタ11勝。序盤は下位に低迷していた阪神は6月から7月にかけての11連勝で勢いをつけて最終的には3位に滑り込んだが、この11連勝のうち、連勝の最初と最後の勝ち星を含む3勝を稼いだ。翌83年が自己最多の13勝。2年連続で先発ローテーションの軸となり、続く84年は開幕投手を任される予定だったが、オープン戦での最後の登板で右手の親指を亀裂骨折。開幕投手だけでなく、その後は2ケタ勝利に届くこともなかった。
“四天王”唯一のドラフト2位が“最多勝”
それでも、先発、中継ぎ、抑えと、チームの状況によって役割を変えながら投げ続ける。日本一イヤーの85年はセットアッパーも多かった。翌86年には自己最多の38試合に登板して無傷の5勝1セーブ。続く87年は再び先発として沈んでいく阪神を支えた。
だが、
村山実監督が就任した88年、ふたたびオープン戦の悪夢が襲う。役割を変えながら投げ続けたということは、起用法が一定しなかったということでもある。村山監督から「先発に戻ってチームを引っ張ってくれ」と期待され、先発として順調に調整していた。しかし、予定の5回を投げたオープン戦で「あと1回、行ってくれ」と言われて、登板を延長。その1イニングで、右ヒジを痛めてしまう。以降、イメージどおりに投げられなくなった。
「悔いがあるとすれば、あのオープン戦」
と引退後に振り返っている。
“高校四天王”のうち、ほかの3人はドラフト1位で、唯一のドラフト2位。プロでも定岡のような騒がれ方とは無縁だった。ただ、4人のうち最も息の長いプレーを続けたことからも、阪神に不可欠な存在だったことが分かる。通算66勝は“最多勝”だ。
写真=BBM